第1編・沿革小史〜昭和46年度

[昭和46年度]

開校の経緯
 道都札幌市の人口は、農産漁村や産炭地の過疎化とはうらはらに年々増加の一途をたどり、加えて全国的な高校進学率の上昇は、札幌圏における高校への進学難を一段と深刻なものにしていった。
 一方、昭和41年4月に札幌啓成高校が設置されてから6年間、札幌市内には1校の公立高校も誕生してはおらず、公立高校の新設を望む道民、とりわけ札幌市民の声は急激に高まってきた。
 こうした社会状勢を背景に道と札幌市とは幾度か協議を重ねた結果、46年11月22日に道知事・札幌市長のトップ会談で昭和47年度から旧一条中学校舎(市が仮庁舎として使用していたもの)を仮校舎として道立高校を開校する方針の決定をみた。
 次いで11月27日、道教育委員会は新設高等学校開設要領を発表、同時に校名を一般に公募することにした。短時日の間ではあったが156通の応募があったことは、いかに市民が新設高校を待ち望んでいたのかの証左ともいえよう。
 12月3日には道教委高校指導班主査本間末五郎が、10日には札幌西高校教頭千葉賢一、道研庶務部長熊澤武雄がそれぞれ開校事務取扱に発令され、開校準備事務室を道教育庁学校教育課内に設置、諸般の準備に着手した。13日には教育方針を決定、あわせて「中学3年生とその父母」に対するリーフを作成、市内の各中学校に配布した。
 道教委としても、今後続々新設されるであろう高校のモデルとすべく、岡村正吉教育長は庁内各課が協力して新設校の準備をバックアップせよと指示、みずからも「意見を聞く会」(12月18日、啓明中学校、対象は市内中学校の校長・教員ならびに父母)に臨んで、新設校のビジョンを語るという熱の入れようであった。
 札幌市教委は、年があけて早々47年1月4日から仮校舎の改修工事にかかった。既に40年以上もたった老朽建築で、市が庁舎として使用していたため教室の間仕切りも改めてしなおす必要があったのである。とりあえず47年度に使用する普通教室4、校長室、教員室、事務室等の管理部門、体育館、特別教室などの補改修を行い、2月10日、ちょうど第11回冬季オリンピックの最中に開校事務室を一条の仮校舎に移した。

教職員の人事
 年の暮れも正月もなく、教職員課、総務課と精力的に協議を続行、47年度の人事は1月中に完了、2月1日付で教諭9名、公務補2名の開校事務取扱いを発令(事務職員2名は既に発令済み)。学校教育課の狭い分室(最初の開校事務室)に全員が集合し、顔合わせをした。ほとんどが兼務発令なので、実際に準備事務の戦力になり得ないことは明らかだが、それぞれに心の準備をする期間が与えられたことは、新年度の滑り出しを好調なものにした一因といえるのではないか。

制服・校章
 本校の開校当時は、学園紛争こそ下火になったとはいえ、服装自由化を中心とする諸要求闘争が相次いでいた。新設校として制服問題に如何に対処するかは大きな課題であった。新しい学校づくりは、全校生徒の一致協力の形で進められなければならない。集団の一員として帰属意識を常に保たせるための制服の効用は見逃すことはできない。さりとて、遠からぬ将来自由化問題が起きるようでも困る。若人らしく、機能的で生徒が好んで着用できる制服をということで、男子はマリンブルーのブレザーにグレーのズボン、ワイシャツにワインカラーのネクタイを制服とし、通常はノータイ、スポーツシャツ等の着用を認めるという扱いにした。女子は紺の襟なしスーツ(ベストつき)、男子と同色のリボンとし、通常はリボンなしも認めることにした。最終的にデザインが決定するまでに、何度か業者の手をわずらわせて試作してもらったり、識者の意見等も徴したのである。
 校章は「北陵」という校名にちなんだ図案を札幌琴似工高(当時)の上条先生にお願いし、決定した。

選抜状況
 本校の設置が公表されたのが11月末ということで、中学校ではほとんど志願高校を決めた後であった。果たしてどの程度の志願者があるものか予想はむずかしかった。最終的に受験者は609名となったが、志願変更の時点で相当数の出入があったことは、志願する側でも競争率の予想が困難であったことを物語っている。
 3月7日・8日の両日、札幌南高を会場に市内各高校の先生方の応援を得て学力検査および採点を行い、以後仮校舎において選抜業務を続行、3月16日、第1期生180名の合格発表を行った。