第1編・沿革小史〜昭和49年度

[昭和49年度]

学級増と定員増
 開校第3年目を迎えて1年生から3年生までの全学年が揃うことになった。なお、この年の入学者は、当初の8間口募集の計画を変更し、10学級450名募集となった。中等教育振興協議会の意見に基づいて高校の適正規模は最大限8間口24学級という原則は、中卒者の激増する札幌圏では、もろくも崩れ去ってしまったのである。
 かくて全校22学級、生徒数は1,000名を越えるに至り、仮校舎ははち切れんばかりとなった。
 教員も一挙に20名の増となり、教員室に収容しきれず、理科準備室や視聴覚準備室に分散しなければならなかった。
 しかし、屯田地区には新しい校舎の建設が急ピッチで進められ、年内には移転可能という見通しもあって、狭い不便な仮住まいも何とか辛抱することができた。

校務分掌
 教職員の陣容も整い、全学年が一応揃ったこともあって、この年度から従来の2部制(教務、指導)を教務、学習指導、生徒指導、健康指導の4部制に改編した。
 また、学校経営の基本方針として「学年・学級経営を中核とし、各部の支援体制を強化して教育の効果を高める」ことを図った。

ネームプレート問題
 1回生は僅か180名、教職員も17名しかいなかったので、1年の1学期を終えるころには、全員がお互いの氏名を知りえた。生徒数が1,000名を越えては、名前を覚え合うこともむずかしくなるので、全員、校内でネームプレートをつけようということになり、新入生には対面式のとき、上級生からひとりひとりに贈り、2、3年に対してはホームルームで一括配布した。
 ところが3年生から意外に強い反発があり、1年、2年に対する着用指導にも影響を及ぼしかねない状態となった。3年の学年団が中心となり、種々説得にあたったが解決せず、遂にネームプレートの全校着用は実現されなかった。

移転
 待望の新校舎への移転は、暮れも押しつまった12月13・14日の両日に行われた。生徒も仮校舎で積み出す係、新校舎で荷をおろす係にわかれて作業を行った。仮校舎は明年度から札幌市立清田高校が引続き使用することになっていたので、後しまつは特に念入りに行った。13日は好天であったが14日には降雪があり、加えて屯田特有の風にあおられて作業は難渋した。
 12月16日(月)からは新しい校舎での授業が開始された。

通学問題
 学校が屯田に移った後の通学路および交通機関の整備は大きな課題で、開校と同時に市土木関係部局、市交通局あるいは中央バスと幾度となく陳情、接渉を重ねるとともに、生徒の登下校の精細な経路調査を行い、ほぼ移転時には通学のあしの確保はできあがっていた。ただ、冬季間、積雪による交通渋滞や欠便にはその後も悩まされることがあった。

姉妹校調印
 札幌の姉妹都市であるポートランドの適当な高校と姉妹校提携をしたい旨、札幌市に依頼したところ、11月渡米した札幌市教委中村教育長の斡旋によってリンカーン高校との提携がなり、50年1月24日、新装なった本校体育館において調印式を挙行した。

校歌
 開校以来の懸案であった校歌の披露は、第1回生の卒業直後の3月8日に行われた。作詞瀬戸哲郎氏、作曲横谷瑛司氏、歌う期間のほとんどなかった1回生のために、卒業記念として校歌を吹き込んだレコードが贈られた。

第1回卒業式
 3月10日、第1回生183名が卒業。仮校舎での2年8か月、新校舎での3か月余、様々な思い出を秘めて、ひとりひとり登壇、本間校長から卒業証書と色紙を手渡された。
 進路状況は国立大学15名、私立大学51名、私立短大33名、各種学校16名、就職7名、その他61名となっている。