第2編・実践活動〜第3章 団体活動

PTA

1.設立
 教育は単に学校だけで行われるものではなく、学校、家庭、地域の三者が一体となって推進されなければならない。その意味で本校が創立する時に、まず手をつけたのは、教職員と生徒が一丸となって基礎づくりに励むことはもとよりであるが、父母にも参加してもらうことであった。
 昭和47年3月16日に合格発表があってすぐ関係中学校に対して、リーダーとなる会員の適任者を推薦してもらった。その返事を待って個々に接渉し、学校づくりのため、また、子供たちのためにまげて北陵PTAの産婆役をお願いしたのである。3月25日、6人の世話役の方々に来校を願いPTAの基本構想について忌憚のない意見交換をしていただき、4月4日にはPTA設立発起人会を開催し、父母10名と学校側から5名の教職員が出席して設立総会の日程・規約・役員選出・事業計画・予算案の基本構想について話し合った。4月8日には設立発起人の中の総会準備委員6名が集まり、PTAの活動についてPTA本来の活動と学校後援的色彩のものとは別立てにして進めるべきであると意見がまとまり、PTAとは別に後援会の設立をみたのである。しかし、会議の進め方は両者を切り離すのではなく一緒に審議していく形をとることになった。
 4月10日開校式・入学式につづいて午後2時30分から旧校舎の美術室(予定)においてPTA・後援会設立総会が開催された。まず会設立までの経緯について説明があり、次に会則を審議承認し、役員を決め、あらためてPTA・後援会の予算を承認して発足したのである。この日以来この2つの団体は表裏一体となって物心両面にわたり、本校教育の基盤整備に尽力してきたのである。

2.活動
 本校のPTAは規約の面で他校と大差はないが、入会の手続きについて任意加入方法ではじめた。これはPTA本来のあり方に沿って行われたわけであるが、加入手続きに時間がかかり、それだけ予算案の作成がおくれ、定期総会がなかなか開かれないことから、4年目から入学と同時に自動的に加入する形に切り替えて現在に至っている。これまでの主な活動をあげると次のようになる。

(1)陳情など
 新設校のPTAは既設校とは違った活動がある。すなわち、予算獲得、校舎建築などに対する関係方面への陳情活動である。これは実にきめ細かく行われ、後援会と一緒になって最初は校地決定に伴う関係方面への挨拶廻りを皮切りに連日のように行われた。特に47年の11月から12月にかけては、前後7回にわたり挨拶まわりをしている。また、12月20日には校舎建設促進期成会が事務所を新琴似農協内において設立され、48年1月24日にPTA臨時総会を開催し、校舎の早期建築に対する陳情とその署名運動の方針が採択された。
 その後、校舎の建築がはじまると業者の丸彦渡辺建設の工事現場に直接慰問するなど、学校創設期とはいえ父母の熱意には本校に対する期待の大きいことがうかがわれる。

(2)北陵だより
 広報活動はPTAの重要な活動の一つである。本校のPTA機関紙の発行は初年度から10年目を迎えた今日まで途絶えることなく続いている。
 第1号は47年7月22日職員の手書きによる発行であったが、2号から専門家にレイアウトを習いPTAの動き、学校の動き、生徒の様子を中心に掲載した現在の体裁ができあがった。しかし、編集の方のP側の参加が今ひとつ出おくれていたが、50年に2期生の父母が編集委員長に就任してから、北陵だよりは現在のような体制になった。すなわち、P側の方々が中心になり各学年2名ずつ計6名の編集委員により毎年各学期に1回、年3回発行している。1回の発行のために委員の方々は少なくとも5〜6回学校に集まり、文字通り編集から原稿依頼、校正と縦横に活躍している。56年1学期で丁度30号を発行した。
 本校は開校当初から父母の方々がたえず出入りする学校であるが、その伝統が10周年を迎える今日も続いており、毎年編集委員が本校を訪れるのもその一つと考えられる。

(3)地区別懇談会
 本校は47年から49年までの3年間、通学区域が石狩南北学区にまたがる全学区のため、生徒の通学範囲が広く、学校で父母懇談会を開催した他に地区別に懇談会を実施し、遠隔の父母の便宜を図る必要があった。
 47年は10月23日から11月2日までに9地区(元町会館、篠路出張所、新琴似会館、琴似会館、円山会館、美園会館、北栄会館、藻岩下福祉会館、本校)、48年は11月19日から11月26日の間に9地区(同上)を設け、本校生の実態をもとにして現代の高校生がどのような問題について悩んでいるか、そのうちの主なものを更に突っ込んで意見・体験等を交換した。しかし、懇談内容がややもすると学年・学級懇談と重複する面があり、父母の出席もあまりよくないことから、49年からは地区別研修会と呼称も改めて父母の関心の強い話題にしぼって意見を交換する場とした。すなわち、11月30日から50年1月18日の間に4地区(旧校舎、西区区民センター、北区区民センター、新校舎)に限って実施した。50年度からは通学区が北学区に限定されたので4地区(本校、北区区民センター、雪印健保会館、西区区民センター)で実施、51年度は丁度創立5周年記念並びに校舎落成記念の年に当たり、3学期に入ってから4地区(北区区民センター、西区区民センター、栄町42条会館、本校)で開催された。
 地区別研修会はいずれも土曜日の午後に当てられ、主として生徒指導に関するテーマで話しあいがなされたが、4地区の出席者を合わせてPTA全体の1割強の出席であったことと、5周年の記念行事で実施した公開講座が好評で継続することになり、52年度からは公開講座の中に加えて実施することとなった。

(4)公開講座
 51年、創立5周年記念行事を実施するに当たり、地域の方々の協力により立派な施設設備をほこる高校になったお礼もかねて、在校生父母だけではなく地域の人達にもこの施設設備を活用してもらう方法はないものかと考えた末、5周年の一環行事として計画されたのが公開講座である。当初は1年限りのつもりで開設したが、父母・地域の方々の継続を望む声が強く、それまでのPTA地区別研修会を吸収した形で翌年以降も実施された。年度別の講座名は次の通りである。
<51年度>
 4講座(染色、書道入門、明治維新、合唱)
<52年度>
 8講座(地理巡検、書道入門、合唱、家庭と学校のかかわり、理科生物、染色、高校生の進路について、明治維新)
<53年度>
 8講座(地理巡検、体育、音楽、生物、書道入門、家庭と学校のかかわり、染色、明治維新)
<54年度>
 10講座(地理巡検、書道入門、合唱、家庭と学校のかかわり、生物巡検、体育、七宝焼、俳句入門、進路、社会科)
<55年度>
 10講座(地理巡検、書道入門、合唱、家庭と学校のかかわり、生物野外巡検、体育、皮革染、俳句入門、進路、社会科)
<56年度>
 9講座(地理巡検、俳句入門、体育、書道入門、合唱、生物野外巡検、皮革染、家庭と学校のかかわり、社会科)

 講師はすべて本校の教職員であり、今後もその予定である。それは教職員の人となりとその教育活動の内容を父母と地域に公開するという原則に立つからである。なお、どの講座も奉仕的精神で成り立ち、講師への謝礼は原則としてない。又、本務の教育活動や正常な学校運営に支障をきたさないように、平日の夜や土曜日の午後、日曜日、休業日に実施している。
 受講者は約40%がPTA会員で、他はすべて地域を中心とする一般市民であり、30〜50才の女性が大半を占めている。このことは地域に根ざした高校づくりを考えている本校にとっては喜ばしいことである。


後援会

1.設立
 高校におけるPTAの活動は、従来どちらかというと学校後援的なものに利用されることが多かった。これは中学校のPTA会費が殆んどPTA本来の活動に用いられているのと対照的である。
 本校が開校する時に学校が必要とする経費は当然設置者である道が出すというが、当時他校の状況を聞くにつれて不安になり、また、創設期に入学した生徒が不自由をしのばなければならない状態が考えられたので、借金をしてでも早めに施設設備を整える必要を感じた。そこで開校式もせまった47年4月8日のPTA設立発起人会で、他校の現状を参考にしながら、PTA本来の活動とは別の団体を設立し、後援会と名付け教育設備の充実・教育環境の整備を目的とし、また父母だけの会とした。しかし、両方の会は役員の重複はしないが会議の進め方として両者が一緒に審議することを申し合わせた。さらに協力預金制度を設け、諸条件の整備を急いだのである。

2.活動
(1)移転まで
 初年度に入学した生徒達が教材教具で不利な扱いを受けないようにと考えて組織された団体だけに、強力な設備投資を展開し本校に赴任してきた先生方を驚かした。また、関係機関への働きかけを強力に実施して絶えず陳情請願するとともに、新校舎移転に伴う内部設備整備計画にもとづいて、着々と充実していったのである。従って、短期間のうちに既設校に勝るとも劣らない設備がなされた。
 更に、新校舎の建築整備促進・通学進路の拡充・バス問題など、これ以上のことは望まれないと思われるほどの熱心に運動を展開し、一日も早く新校舎に移転して授業ができるよう万全を期したのである。

(2)5周年記念事業
 昭和51年は開校5年目に当たり、また、49年暮れに新校舎に移転して以来グランドの整地や格技場が竣工されたので、11月6日に落成式と創立5周年の記念式を同時に挙行した。また、この日に合わせるべくそれまで機能していなかった教育工学室にアナライザー(集団反応分析器)、教材提示装置が導入された。現在本校の前庭に高くそびえるイチイも、当別町の山奥深くからこの時移植したものである。これら5周年の一環事業は後援会が中心的に活躍し、校名にふさわしい北海道の教育を先導する勢いが感じられた。
 後援会は5周年を境にそれまでの色彩を変更し、部活動・クラブ活動の文化・体育的援助に力を注ぐようになって今日に至っている。


校舎建設促進期成会

 昭和47年4月10日に開校した本校は、その年の暮れ12月7日に校地が決定した。すなわち、現在地の58,000平方メートル(17,800坪)である。
 この校地決定に伴い、PTA、後援会、学校が関係方面へ挨拶に廻った。また、開校と同時に着手した新校舎の建築構想が図面段階に入っていたが、当時の校舎建築には設計1年、工事3年の4年計画が常識になっており、更に道が改築中の学校を多くかかえていることから考えて、1期生は新校舎に入らないままに卒業する恐れもあり、強力な建築促進運動を展開する必要を感じた。
 以上の状勢から地元関係者を中心に建設促進期成会を組織し強く運動すべきであるという声が高まり、47年12月20日にそのための世話人会が開催され、その席で校舎建設促進期成会が設立されたのである。
 期成会は新琴似農協内に事務所をおき、本校の主な校下と予想される北区内の屯田・新琴似・篠路・麻生地区の町内会の方々が主軸となって、48年1月中旬頃から予算編成の進行に合わせて関係当局に対し陳情請願をくり広げた。その力は強力であり、校舎は49年の暮れ近くに竣工し、12月13・14日の両日晴れて新校舎への移転となった。当初あやぶまれていた1期生の卒業式も新校舎で挙行することができ、関係者一同どんなに喜んだことだろうか。
 期成会は、その後校舎落成並びに創立5周年記念の協賛会の母体となって、PTA・後援会とともに記念事業の推進に当たり、51年12月23日に協賛会の解散総会をしおに、期成会もその所期の目的を達成したので協賛会に合わせて解散し、終わりを告げた。


陵友会

 本校の父母は、開校当初から学校づくりに参画し、旧校舎から新校舎そして5周年と学校に出入りする機会に恵まれ、学校もつとめて父母の方々が来校するように計らった。そのためか、5周年の式典が行われた51年秋、校舎も落成しそれまでしげく学校に向かった足が遠のくようになってから、卒業生の父母の方々が時折集って旧交をあたため、学校の様子も知りたいという話がもち上がり、52年7月16日にOB父母の発起人会が開かれた。さらに8月31日に再度打合せをして、丁度5周年式典の行われた1年後の52年11月6日を吉日として陵友会が誕生したのである。
 この会は親睦団体で本校卒業生の父母、旧職員のうち会の主旨に賛同した方々で構成し、在校生の父母、現職員も参加できるようになっており、年1回懇親の場をもうけ今日に至っている。会員数も年毎に増加の一途をたどり、現在7期生までOB父母190名、旧職員37名を擁する団体になっている。
 このたび10周年を迎えるに当たり、陵友会の方でも学校に記念の品を残したいと意見がまとまり、校訓の碑を寄贈することになった。縁あって北陵高校の父母になり、我が子に寄せる期待と同じように本校に深い愛着をもち、それが今日の本校を育んできたのである。校訓の碑にたくす父母の夢はどこまでもつきない。


同窓会

 1年間の準備期間をおいて50年1月20日に発足した。規約はできるだけ簡潔なものにし、運営の段階で情勢の変化に柔軟に対応できる形をとった。当面の諸活動は、会員に余力ができた段階で改めて計画することになっている。なお、10周年記念事業に対応し、役員に若干の変更が加えられた。