第2編・実践活動〜第4章 生徒活動

生徒会設立

 昭和47年4月、第1回入学生の宿泊研修を出発点として「生徒会は必要か」を中心に議論し、全員が生徒会は必要であるという認識をもつまで、ホームルーム、全校集会を通して討議を深めました。
 6月から7月には、それでは生徒会をつくるにはどうしたらよいか?から、生徒会設立準備委員会をつくることになり、各クラス4名程度で組織する。そして、生徒会設立準備委員会の仕事内容について審議、次の3つに力点をおき準備が進められた。
・生徒会の組織、規約の作成
・準備資金の検討
・新役員誕生のための選挙管理委員会の仕事
 8月から9月には資料の収集より始め、他校へのアンケート、生徒手帳などの収集に精力をそそぎ、一方では準備資金の原案作成、ホームルームでの討議を重ねた。
 10月から11月は、他校・本校のアンケートの集約・分析、今までの生徒会の問題点について整理し、12月から1月は本校生徒会のあり方を検討、その上にたって本校生徒会の組織の作成、決定をみた。
 2月から3月は規約の骨子の作成、そして3月23日、生徒会設立総会が開催され、札幌北陵高等学校生徒会が発足したのである。
 この1年間、準備委員長を中心とする17名の委員はよく協力し、創造性豊かな仕事がなされたことはもちろんだが、「考える喜びと苦脳」「創造する喜びと苦しみ」を味わい、学びながら全生徒が参加し、協力し現生徒会の基礎づくりがなされたことを明記しておきたい。1

・48.3.23 生徒会設立総会、生徒会発足する
・48.3.20 生徒会誌「北陵」創刊号発行
・48.5.23 第1回生徒総会実施
・48.7.26 第1回北陵祭「今はばたくとき」開催


部活動

 生徒が互いに共通した興味や関心を持って自主的に活動することにより、所属感や連帯感などを中心とした社会性の育成や、それぞれの部活動を通じて才能や個性を伸ばし、高い水準を求めて知識や技術の練磨をはかり、入賞や勝利による成功感、満足感を味わう。この目的をはたそうとする中で努力し協力することの喜びを体験させる目的で、初年度から希望する生徒がいるならば出来るだけ多くの部を設立し生徒に活動の場を与えようとして始められたものである。初年度は13の部で出発し、現在は同好会も含めて40の部及び同好会が活動している。


想い出

美術部
 北陵高校の美術室は、北に面した窓、アルミのイーゼル、円いイス。そんな記憶も今ではすっかり懐かしいものになってしまった。あの窓から幾度、緑の野原や虹色に染まる空を眺めたことだろう。大きなキャンパスに、つたないながらも気持ちの精一杯をぶつけた、美術部の仲間達。絵を描くばかりでなく、放課後美術室に集っては世間話をし、ときにはお互いの悩みを真剣に相談しあい、またあるときはケンカをしたりした。
 夏休みになると美術部員は、決して広いとはいえない美術室に50号、100号のキャンパスをもちこんで学生全道展や高文連に向けてひしめきあう。和気あいあいとしていながら、他人の絵に刺激され、より美しいものを、より描きたいものを目指して、日が暮れるまで絵筆をはしらせていた日々。
 学校祭のときには、それぞれ自分のクラスでの忙しさの合間をぬって美術室に集まる。先生の手伝いに助けられながら、作品を展示したり、入口の壁に絵を描いたり、ある時は石こう像や牛乳びんや傘などありとあらゆるものを銀色に塗りこめて、黒い布の上に並べてみたりもした。自分の作品を他人に見てもらうときの、あのドキドキとした緊張感。そして壁にかけていた絵をはずす時のため息をつくような気持ち。
 私に、絵を描く喜びを最初に教えてくれたのは、あの小さな美術室の美術部なのです。(第6期生)

生物部
 生物室の一角に数枚の賞状が貼られている。生物部員以外誰一人として興味を覚えないであろうそれらの1枚に、私が生物部員として送った2年3ヵ月の思い出がにじんでいる。私が入部したのは1年生の2学期末日。3年生はすでに現役引退され、残っていたのは2年生が2人だけの弱小部だった。「もうすぐつぶれるぞ。」それが私の印象であった。
 細胞性粘菌、カビの一種である。我部最大の研究対象であり、毎日がこれの研究に費やされているのである。一度に50近いストックを作り検鏡してゆく、使用したガラス器具は毎日毎に流しにうず高く積み重ねられる。シャーレ・試験管・コルベンなどの洗浄はまさに戦いである。へたをすればこの作業のみで活動が終わる日も少なくないのである。
 10月には、唯一の研究発表の場である高文連が開催される。この開催が近づくと我部の忙しさは並たいていではなくなる。毎日が検鏡・データー集計・結果分析でおわれる。データーを一つ一つ念入りにチェックし、結果を出してゆく。活動時間だけでは時間が足りず、家に持って帰り発表原稿をまとめる。それでも原稿が印刷され開催側に送り出すことができたのはしめきり最終日のことだった。次に私を待っているのは、発表会用の原稿作りであった。授業もうわの空、教科書そっちのけで原稿書きが続く。できた原稿はページ毎に他の部員達や先生方が添削してくれる。それが終わって発表リハーサル。仲間達が見守る中、何度も何度も繰り返し、やがて当日をむかえたのであった。一つの研究発表を苦労と根気によって完成させた。わずか10分の出来事に我々は1年の月日を費やすのである。
 今思えば、本当にすごいバイタリティーを持っていたと自画自賛したくなる。1枚の賞状がいろいろなエピソードを含んでいる。私の部生活の記念すべき象徴の1つがそれなのである。(第6期生)

合唱部
 私が合唱部に在籍していた頃は創設間もない時で、まだまだ試行錯誤の段階でした。当時、私が思っていたことと言えば先輩が来て練習を指導してくれたり相談にのってくれたりしたならば、いかに良いであろうかということでした。また全国の優秀な合唱部を見るとOB会はもちろんのこと、OBの合唱団まで組織していたので是非、我が北陵にもOB会を、ということでした。それと同じ思いを後輩にさせたくないという願いから、先日の北陵高校合唱部OB会の結成に積極的に協力させていただきました。
 恩師の先生は生徒の自主性を尊重される方でしたから、他人まかせの部活動ではなく、一つ一つが自分達の責任に於いて行われ、それだけにやりがいがありましたし、部員各人の責任も大きいものでした。
 一曲一曲練習し、仕上げていく過程にはいろいろと困難がありましたが、それだけに仕上がった時の喜びはまた何にも代え難いものでした。この一つ一つ積み重ねるという努力によって根気と忍耐力が培われたように思われます。現在、音楽大学でピアノを学んでいる私もその気持ちは一緒で、高校時代と全く変わりはありません。
 過日教育実習に訪れた時には部員数が増えていることに驚くと同時に、よく団結し合唱を楽しんでいる様子がわかりました。現在の後輩も自主性を尊重されるという良い環境の中で合唱の喜びを味わっていることを、非常に心強く思いました。
 自分達が合唱を通して何を求めようとしているのか、又そのためには何をしなければならないのかをよく考え、末長く北陵高校合唱部の灯をともし続けて欲しいと思います。(第4期生)

柔道部
 柔道部が創設されて早10年、その中で高校時代3年間を柔道にかけたOB並びに現役の部員の様々な思いが、陵道館の青畳に染みこんでいると思います。いつも忙しい中を毎日稽古して下さる顧問の先生や、創設のときの本間校長先生には卒業してからも本当にお世話になっております。
 さて柔道部10年間の思い出を私なりに振り返りますと、旧校舎での仮道場の稽古を抜きにしては語れません。夏はまだしも、冬は足が凍てつくような寒さの中でも稽古又稽古。先生の掲げた“力必達”の思いを胸に秘め部員一丸となって練習に励みました。その中でついに1期生が昭和49年の全道大会の切符を手に入れました。さらにその年の新人戦では、全道大会中量級第3位の部員や、柔道部の基礎を作ったと言っても過言ではない部員を中心に団体3位となり、日増しに北陵柔道部の名が知れ渡ったわけです。
 公立高校の宿命である私立高校とのギャップを乗り越え互角に戦い、第4期の部員を中心にしたメンバーの時から、他の私立高校の脅威となってきたわけです。その中でも、第5期の部員を中心とした黒帯ファイブの時には、ついに宿敵北海高校を破り、個人戦でも優秀な成績を収めました。後輩も後に続けとばかりに第6期、第7期の時代には全道高校選手権大会で連続して南北海道のベスト4に入るという輝かしい成績を収めたのでした。その中で輝かしい戦績を収めた者もおりますが、一方ではいつも縁の下の力になっていた部員やマネージャー等は、後輩の心強い精神的な礎になったと思います。高校柔道の本質は結果ではなく、あくまでも過程であり、いかにして努力を継続するかです。陵柔精神の柱とも言えるしぶとい柔道並びに精神は“力必達”(努めれば必ず達する)であり、卒業してからもそれぞれ道は違っていても、神髄はこの“力必達”の三文字であるように思います。
 春の午前午後の強化練習、辛い夏休みの合宿、冬の寒い間の強化練習等では、寝食を共にし同じ釜の飯を喰う仲であればこそ、卒業してからも年に一度の陵柔会には殆ど是認のOBが顔を見せ、現役時代のつらかった事や近況等を報告し、楽しい一夜をあかすわけです。このOB、現役の結束の強さは、柔道部ならではのものであり、自慢できる事のひとつだと思います。
 また現役部員にも言いたい。“北陵柔道部に居て学ぶこと多し、切磋琢磨し精進せよ”
 この紙面をお借りいたしまして、顧問の先生、OB並びに現役部員をこれからもよろしくお願いいたします。
 ―北陵柔道部は永遠に不滅です―

野球部
 8月29日の土曜日に、私は3年ぶりに北陵高校を訪れました。車の中から外を見ながら、屯田も家が増えたなと思いました。高校が見えてきて校門まで来ると、グランドが緑色なのに驚きました。そのとき、私は入学した頃のことを思い出しました。私が高校に入学した頃は、北陵にはまだグランドはなかったのです。ましてや、芝生なんて……。グランドを走り回っている後輩諸君を見て、私は高校時代のクラブ活動を思い出さずにはいられませんでした。
 昭和50年4月、北陵高校に4期生として入学した私は間もなく、中学から引き続き野球部に入部、再び好きな野球を始めました。しかし、グランドがありません。今のグランドは、野っ原に大きな石がごろごろ。そんなところでもなんとか、バッティング練習だけはやりました。しかし守備の練習はもちろん、走ることもできない状態でした。そこでわれわれ野球部は、遠くのグランドのあるところまで走って練習することにして、やっと少しは満足な練習ができました。それからは、授業が終わると、そのグランドまで走り練習するという毎日が続きました。夏の大会が終わり、1・2年生の新チームになってやっと、火山灰が入って一部練習する場所が確保されました。しかし、私が2年になってグランド工事のため野球部はまた練習場の確保に苦労しました。現在の麻生球場にも高いお金を払って借りて練習したこともあります。その後、野球部全員でアルバイトをして部費を稼いだこともありました。秋の大会が近づいてもまだ満足に練習はできませんでした。そこで今度は、石狩の小学校のグランドまで行って小さなグランドで練習です。思い切り打つこともできませんでした。その後、北陵のグランドも土が入りやっと広く使用できるようになりました。まだグランドとしては粗末なものでしたが、とてもうれしかったことを覚えています。やっと自分たちのグランドができたのですから……。しかし、もう冬で本格的に練習ができるようになったのは、3年生になってからでした。その後、2ヶ月後に3年生最後の大会も終わり、私の野球生活も終わりました。北陵での3年間の高校生活の中で、好きな野球を自分たちのグランドでできたのは、ほんの数カ月。2年生までに5つのグランドを借りて練習しました。なんとも言いようのない心境でした。でも苦労したのは野球部だけではありません。すべてのクラブが苦労したのです。今思えば、いい思い出になりました。
 後輩諸君!君達は幸せだ。思い切り練習できるんだから……。今後も練習に励んで、好成績を残せるようがんばってください。私だけでなく先輩全員が、諸君の活躍を期待しています。
 最後に、先輩達の苦労を忘れないでください。(第4期生)

軟式庭球部
 可能性を信じ、大道を進め。
 3年間のクラブ活動の中で教えられたことは、この言葉にすべて表されているような気がします。
 高校1年の5月、当時軟式庭球部顧問をされていた先生に「3キロやせる。」と練習の帰りに言われました。その頃はまだ、学校にテニスコートがなく、屯田西公園に毎日通っている状態でした。なぜ突然こんなことを言われるのか、私にはさっぱりわかりませんでした。が、今思うと「もう少し体をひきしめて(筋肉をつけて)動けるようになれば、なんとかなるぞ。」という意味だったのではないでしょうか。
 先生は、私たちのほんの小さな可能性をも見出してくださいました。毎日、何度やってもできない。半ば諦めかけたこともしばしばありました。ノーミス15本。他の仲間がどんどん上がっていくのに、自分だけとり残されたことも幾度となくあり、そんな中で先生のどなり声と、仲間の声。本当に心の底から「がんばって!負けないで!くじけないで!」と伝わってくるような・・・・・・クラブに入り、先生と出会い、仲間たちに励まされ、支えられ。この仲間は私の一生の宝だと思っています。
 可能性を信じ、大道を進め。どんな時にも諦めることなく、時には負けると分かっていても、逃げることなく目の前の自分の進むべき道というものを、しっかりと歩んでいけ。そんな意味ではないでしょうか。この言葉は、現在でも軟式庭球部の部旗に掲げられています。北陵生(卒業生も含む)は、このことを今一度考え、北陵生である(あった)ことに誇りを持ち、常に次の代に伝えていくことを忘れないでほしいと思います。
 しかし、私たち軟式庭球部の二度の全国大会出場は、当然他の先生方、用務員さん、夜警さん、その他たくさんの方々のご支援ご協力があったからこそ成し得たことで、本当に心から感謝しております。
 高校生活にクラブ活動は欠かせないものです。たくさんのクラブが、個性豊かな活動をしてきました。それは、それぞれ目標は違ったけれども、今は皆同じ思いをしているのではないでしょうか。
 何のためにクラブ活動をやったかと言われれば、やはり自分のため、そしてその時ではなくては作れない思い出を作るためだったのではないでしょうか。(第4期生)

バドミントン部
 私達がクラブを始めた時はまだ一条校舎の天井の低い体育館の頃でした。はじめは、数人の2年生と10数人の私達1年生で、特にバドミントンのキャリアの長い人もいない中、みんなが基本から習うというスタートでした。ましてあの体育館ではシャトルがすぐ天井にぶつかってしまい、何個も何個もシャトルを上にあげてしまうので、思い基地のびのびと打つというわけにもいきませんでした。どうしてもランニングとか体力作りが練習の中心になり、シャトルを打つことにはなかなか慣れることができませんでした。そこで、近くにあった中央体育館の利用を思いつき、休みの日や週1度の夜の講習会に参加して少しずつシャトルを打つことを覚えました。私達が2年生になった時、3年生のほとんどがやめてしまい、どういうわけか私が部長になることになってしまいました。
 試合に出ても2年生ばかりで、しかもまだ1年足らずのキャリアじゃ、とても相手にしてもらえず、いつも敗者で0点ゲームも頻繁でした。そんな私達でしたがバドミントンはとても好きでしたし、ましてクラブとしての基礎を作っていく大切な時期だったので、くじけるわけにはいきませんでした。それで技術はともかく、まずマナーとかクラブのまとまりとか規律をしっかりしたものにしようと考えました。まず、週5回は必ず練習し、体力作りや精神力を強くすることを心がけました。練習を休む時の連絡とか、先輩後輩の区別をしっかりつけるとか、言葉遣いやあいさつについても他のクラブにはみられないほど厳しく言うことにしました。それが少しずつみんなに伝わり、私達が3年生になる頃には更衣室の出入りの時のあいさつなどは「バドミントン部を見習いなさい」と他のクラブの人に言われるようになりました。今思うと私の高校時代はクラブのことがすべてだったように思います。あんなに必死に何かできたのは、やはり若さのせいだったのでしょうか。
 私達が作ったクラブの土台を後輩達がどんどん大きく立派にしてくれていることを信じています。そしてバドミントン部が私達の青春の1ページだったことを時々思い出すために、「北陵高校バドミントン部OG会」を結成し、年に一度集まることにしました。それぞれに社会人となり、主婦となり、そして私など1歳9ヶ月の男の子と、来月生まれる子の2児の母として、あんなに一生懸命クラブに打ち込めた高校時代を思い出せることは、とても幸せだと今つくづく思うのです。(第2期生)

サッカー部
 開校10周年おめでとうございます。
 思いおこせば10年前、一条仮校舎での高校生活、なつかしいの一言につきます。
 さて、この記念誌にサッカー部の思い出をということがあり、昔を思い出しながら書いてみたいと思います。その前に、サッカー部の土台を築いた仲間が不慮の事故で死去、このすばらしいプレーヤーのご冥福を心からお祈りします。
 北陵高校サッカー部は、開校当初よりあった部活動のひとつで、サッカーが好きな者が集まり、ボールを蹴ったのが始まりです。グランドもなく、最初は一条校舎の中庭を整地しながら、みんなが持ち寄ったボールを蹴って練習したものです。そして、他の部が活動を始めるようになると中庭から出され、豊平川河川敷を主に練習をし、時には遠く米里サッカー場まで足をのばしたりしました。ゴールのかわりにバケツに石を入れ、レーキを立て水を撒いてラインの代わりにしたり、とにかく苦労をしながらの練習でした。もちろん、サッカーを知っている先生もいないため、自分達で練習を考えたものでした。部員数も12、3名で半分以上が素人。しかしサッカーへの情熱は計り知れないものがあったように思われます。戦績も3年の春のリーグ戦で優勝、又高体連でもあわや地区代表というところまでいったことを思い出します。まだまだ書き足りない部分がたくさんあると思いますが、最後に北陵高校のこれからの発展と、サッカー部のこれからの活躍を期待して、思い出といたします。(第1期生)

バレーボール部
 私の高校時代の思い出は一条校舎にあります。
 したがってバレー部の思い出も一条校舎にあります。入学後バレー部が誕生したのは5月に入ってからで、部員は多少の増減はありましたが結局1期生は7名くらいだったと思います。練習場所は体育館だったのですが、なんとバスケットボードの先端から1mくらいですぐ天井になっていて、オープントスを上げると必ず天井にぶつかってしまうので、平行トスばかり打っていました。しかし何が幸いするか分からないもので、春の高体連ではその平行トスに相手チームがついて来れずに、アタックがビシビシ決まり初出場で初勝利を上げることができたのです。
 しかし体育館の練習だけでは不足なので、月曜日は中央小学校へ、金曜日は中央体育館へ、時には自分たちの出身中学校へとあちこちに練習場所を探したものです。この頃は外部から先生がコーチに来て下さっていました。
 2年目は別の先生が指導して下さることになり、正式に北陵高校バレー部が活動を始めたのです。
 この頃の練習場所はアスファルト舗装した中庭と体育館で、日曜日には練習試合もするようになりました。中庭の練習では風のためにサーブが変化し良いレシーブ練習になりましたが、トスまで変化するのには困りました。
 思い出の試合はやはり全国大会まで進出した札幌南高とのものです。結局1―2で敗れ全道大会へは出場できませんでした。しかし私達の果たせなかった全道大会出場も、3期生によって成し遂げられたのです。
 それから次の先生へと引き継がれ、現在に至っています。ここ数年人数不足から全道には出場できないという話も聞いていますが、この10周年を期に新たなるバレー部の発展を期待しています。(第1期生)