北陵沿革史〜第1章 創設の頃

道民の期待を胸に
 北海道札幌北陵高等学校。北海道の頂点を志向する高校であれという願いを込めてそう命名されたという。昭和46年12月、道教育委員会が翌年に開設することになった高校の名称を公募、156編の候補の中から「北陵」が採用された。
 北陵高校の誕生は、昭和41年に札幌啓成高校が設置されてから六年目。膨張を続ける札幌圏の年頃の子供を持つ親にとって待ちに待った朗報であった。当時札幌は冬季オリンピックをひかえて地下鉄が開通して人口は百万を突破、政令指定都市となることが決定、なお人口の集中が続いていたのである。
 各界の要望に押され予定を一年繰り上げたせいもあって校舎は開校に間に合わず、旧一条中学校を仮校舎として出発した。市庁舎として使っていたこの木造建築は老朽化が進んでおり、かなりの改修を要したが、とりあえず普通教室四間口分と校長室、職員室、事務室などの管理部門、体育館、特別教室などの補修を行って、47年2月10日、冬季オリンピックの最中、開校事務室をここに置いた。新校舎が現在の地、屯田に建設されたのはさらに二年半後の49年12月のことである。
 昭和47年4月10日、真新しい制服に身を包んだ180名の1期生が感激の開校、入学式にのぞんだ。男子はマリンブルーのブレザーにグレーのズボン、女子は襟無しのスーツ姿で、当時としては画期的と言えるほど斬新でスマートという評であったという。
 初代校長本間末五郎氏は、3.4倍の難関を突破して入学式にのぞんだ第1期生に「これからの何百年も続くこの学校の土台を築くために、17人の教職員と180人の生徒がスクラムを組んで汗を流そうではないか」と訴えた。この式典に参加した生徒の喜びもさることながら、父母の感慨はひとしおのものがあったに違いない。この父母の喜びはその後の新校舎の建設促進、環境整備の運動へとつながっていくが、その間の事情は北陵高校PTA機関誌「北陵だより」に詳しい。


木を寄贈してください
 「立派な木でなくてもいいのです。間引きをした余りのものでもいいのですから・・・・・・」
 48年12月の北陵だよりにこんな記事が見られる。某映画会社がその校門と前庭のたたずまいに惚れ込み、是非ロケ地にと懇願したほど風格のある北陵高校の前庭も、こんな父母の協力によって造られたものである。
 仮校舎での授業が始まったあと、新校舎建築への歩みは遅々としたものであった。47年11月に建設場所が決まったとはいえ、48年に始まった第一次オイルショック、それに続く「総需要抑制政策」の影響を受けて校舎の建築は遅れ始めたのである。その上「市街化調整区域にあるから水道がひけないのではないか」「道路が悪く、除雪対策も十分ではないからバスの運行が出来ないのでは」「資材が高騰して入手できない。第1期生の卒業に間に合わない」などの風評は、父母の感情を逆なでするのに十分であった。
 昭和48年1月、発足間もないPTA、後援会は臨時総会を開き、校舎の早期着工、内部整備の充実を請願する全会員の署名運動を行うことを決めた。その後、後援会会長、PTA会長を先頭に道教育委員会への陳情、市議会への道路整備の請願、現地視察、再度にわたるいなりずしやミカンを持参しての工事現場への慰問、バス運行についての中央バス営業所訪問と精力的な運動が展開された。「どのような危機に直面しても、未来に生きる若者の教育の場所だけは確保せねばならぬ」というのが父母の合い言葉だった。
 このような父母の努力も実って昭和49年12月に校舎は完成、12月13、14日の両日をかけて引越しを行うことになった。天井を鳩ががさがさと歩き、教科書の上に異臭を放つほこりが落ちてくる教室、ボールを打てば屋根にぶつかり、羽球のコックが梁の上にあがってしまう体育館での2年半の生活ともお別れになった。「僻地行きか」と自嘲気味の声も無いではなかったが、新天地への移動は多くの生徒にとって夢ふくらむ門出だったのである。
 移転に先立つ10月、3年生が記念植樹を行った。その時植えた木々も今では大きく育って、父母の寄贈してくれた木とともに北陵高校の庭を飾っている。仮校舎の中庭にあった北米原産の大木ユリノキも旧校舎の思い出に植えられたが、プラタナスの成長には及ばず、ひっそりと大成の時期を待っている。
 引越しの初日は晴天に恵まれたが、2日目の14日は吹雪になった。屯田特有の風にあおられて作業は難航した。だが誰もが一生懸命だった。いま当時の思い出を聞くと、あの生徒と先生が一丸となって雪の中を引越してきた時のことが忘れられないという声も多い。新しい生活への希望が先生と生徒を強いきずなで結んでいたのであろう。


はるけき雲や
 新校舎が完成し、引越しが行われた49年12月、校歌の歌詞が出来た。作詞者の瀬戸哲郎氏によれば、この校地・校舎の第一印象は屯田の豊かなみどり野であり、はるか手稲の頂に浮かぶ雲であり、平野に建てられた太い柱で飾られた堂々とした学校の玄関であったという。
 17年の歳月は玄関前のみどり野を住宅で埋め、砂利道だったせまい屯田三番通りを幅広い産業道路に変えてしまった。だがいまなおグラウンドを真っ赤に染める夕日や、校舎から正面に見える手稲にかかる白雲は昔のままで、「はるけき雲や」で始まる歌詞と共にこの校舎を思い起こす卒業生も多いのではなかろうか。この歌詞に横谷暎司氏が作曲し、歌うことのなかった卒業生のためにレコードに吹き込まれ、卒業記念として贈られた。校歌の制定は50年3月8日とされている。
 昭和50年は北陵高校として初めての卒業式を新校舎で行い、実質的に初めてといってよい各種の行事をスタートさせた記念すべき年であった。すなわち第1回目の予餞会、卒業式、新校舎で初めての選抜試験と入学式、初めて公開で行った学校祭、初めての林間学校、男子10キロ・女子5キロのマラソン大会など、現在行われている学校行事の多くがこの年に始まっている。
 昭和50年3月10日、道教育委員会委員長も来賓として参列し、第1回の卒業証書授与式が行われた。183名の卒業生は一人ずつ登壇、卒業証書と校長揮毫の色紙が渡された。渡すもの、渡されるもの、ともに苦楽を分かち合ってきたものとして特別の感慨があったに違いない。
 第1期卒業生の進路状況は、国立大学15名、私立大学51名、短大33名、各種学校16名、就職7名、その他61名となっている。この卒業からすでに17年。この時の若者たちは現在35歳、文字通り社会の中堅として仕事に子育てに忙しく、この校門を去った日もはるけき昔のことになった。


一人ひとりを大切に
 新設された学校の校風なり性格は、よかれあしかれ創立した当時の先生方、とりわけ校長の教育観なり、人間観に大きな影響を受ける。北陵高校の伸びやかで大らかな気風は、初代校長本間末五郎氏によるところが極めて大きい。
 本間氏によれば、新設する高校に集まる生徒は、成績は比較的上位の「いい子」が多いが、のんびりして成功感を味わったことがなかったり、苦労に耐えて最後まで目標をやり遂げる体力や気力に欠ける者が多いのではないかと予想された。そこで、学校作りに当たって考えられたのは、第一にハイ(灰)スクールではない楽しいところにすること、第二に学校は教職員、父母、生徒の三者が一体となって造り上げねばならぬこと、第三に学校地域の人々に喜んで支持される文化センター的なものであるべきだという三つの観点であった。
 これらの視点に立って、あらゆる機会をみつけて生徒の気力、体力、意欲の養成をはかること、人間には何か一つ人に優れた長所があるはずなのだから、それを見つけてやること、細かに規制するのではなく人間として基本的に大切な道徳、例えば「紳士たれ」に仕向けていくこと、教科以外にも活動場所を積極的に設けて成功感を持たせることなどを申し合わせたのである。
 こうした考えに立って校舎の設計、機器の導入、制服の制定、新しい生徒会、年度初めの宿泊研修、1年生全員による神恵内での臨海学校、希望者による夏休みの林間学校、スポーツ大会、個別指導の徹底と教育相談、父母との連携の重視など、各種の取り組みが行われたのである。それだけに北陵高校は行事が多く、その行事の中に自己を発見していった生徒も多いのではなかろうか。創立当時から変わらぬ北陵高校の教育目標は次の通りである。
1.一人ひとりを大切にし、その可能性を最大限にのばす教育。
2.あらゆる機会をとらえて、調和のとれた人間形成をめざす教育。
3.絶えず向上しようとする旺盛な意欲のもと、充実した気力と強靱な体力を養う教育。
 このような方針のもとで発足した北陵高校は、創立された当初から石狩管内にその後新設されるであろう十数校のモデルという意味で、また学園紛争の波に洗われた北海道の高校教育界でどんな学園を作り出していくかという意味で、熱い視線が注がれていたと言ってよい。
 それだけに本間校長の言を借りれば、先生方はまさに「超人的な働き」であったし、父母もこれまで述べてきたように大変ひたむきだった。全道各地から視察の人々も多かったが、当時としては最新の校舎、教育工学室などの設備とともに、行き届いた清掃と明るく礼儀正しい北陵生に感銘をうけて帰った者も多い。世間の注視を受け、誇りに足る学園にいるという自覚が生徒に自信と矜恃を持たせたのであろう。


五周年を祝う
 昭和51年3月、第2期生360名を送り出し、4月には450名の新入生を迎えた。当初8間口24学級体制でスタートしたこの学校も、札幌圏への人口集中の影響を受け、急増対策で急遽6教室を継ぎ足し、30学級規模となり今日に至っている。近代的な設備を設置した反面、狭い体育館、足りない特別教室など、過密状態にその後苦しむことになる。
 この年は開校して5年目、移転に伴う一連の工事が一段落した年であった。10月11日には屋外グラウンドの造成工事完了、同26日には格技場が陵道館と名付けられて完成、11月26日には父母160名も参列し全道のモデル校にふさわしい校舎の完成と5周年を祝ったのだった。
 この祝賀事業の一環として、教育工学室のアナライザー一式と正面玄関前の庭に巨大ないちい(オンコ)が寄贈された。これは石狩当別の安藤さんが当別付近の道有林を歩き回って見つけたという樹齢200年の直幹の銘木で、近郷にもあまり見かけられない立派なものである。北陵高校の生徒がこの大木のように風格のある立派な人間に育ってほしいというのが、この木を贈った後援会の方々の願いであった。
 ともあれ父母の熱い思いが通じて校舎は立派に完成した。開校以来我がことの如く奔走した後援会、PTAの皆さんの喜びは感無量のものがあった。この厚情に感謝し、学校と地域の連携を密にし、地域住民に研修の場を提供するために、かねてから懸案の公開講座が開かれた。これは地域社会に対する奉仕として開校5周年を記念して発足したのである。詳しくは別項にゆずるが、この取り組みはその後全道で行われるようになった公開講座の先駆をなすものであった。
 この年にはもう一つ北陵高校にとっての慶事があった。第8回の北海道教育実践校に選ばれたのだる。進路相談、健康相談を含んだ幅広い教育相談、生徒指導の充実、ゼミ学習・主題学習・教育機器の有効な利用による学習指導法の改善、宿泊研修・臨海学校・見学旅行など学校行事の改善、研究紀要の発刊など多彩な活動が認められたものであった。52年2月、校長、後援会長、職員代表、生徒代表などがホテルアカシアの授賞式に臨んで表彰を受けた。


バラの香りに寄せて
 北陵高校が開校された昭和47年は第三次中東戦争が勃発、いわゆる「オイルショック」のひきがねになった年であった。またこの年の2月には冬季オリンピック札幌大会が開かれ、好むと好まざるとに関わらず国際的な動きに対して無関心ではいられない社会状況が生まれつつあった。そして「これからの若者は世界を視野においた知識を身につけねばならぬ」というのが大方の先生たちの考えであった。
 このような社会的状況とケプロン以来の「国際都市」札幌のアメリカ・オレゴン州ポートランド市との姉妹都市提携(昭和34年)が背景にあって、北陵高校とリンカーン高校の提携が実現する。
 昭和49年11月に渡米した札幌市教育長の斡旋によってリンカーン高校との提携の打診があり、50年1月には新装の体育館で提携の調印式が行われた。それ以来、時には疎遠になる時期もあったが、17年間の同校との交流が続いている。
 50年5月にはポートランド市のローズクイーン、ダニエル・ルーズィックさんが来校した。ローズクイーンはポートランド市の一大イベントである「バラ祭り」の際に全市の高校生から選ばれるもので、容姿、学力、生活態度等あらゆる角度から厳しい審査を経て選出される。ルーズィック嬢は全校集会で訪問の挨拶、さらに書道などの授業を参観、自らも「ばら」と伸びやかに書き上げ、和やかな笑顔を振りまいて帰っていった。またこの年の8月には全米柔道使節団が来校、親善試合を行うとともに、囲碁、将棋、茶道などの必修クラブも興味深げに参観していった。
 昭和51年11月には本校開校5周年を記念し、リンカーン高校から友情の絆としてポートランドの花、バラの苗を寄贈したいとの申し出があった。あいにく検疫の手続きなどのため苗そのものは送られず、苗の代金100ドルが送金されることになった。
 昭和52年5月、本校では校舎正面、教室の前に「姉妹校の庭」を造成、ポートランドで栽培されているのと同じ苗を購入、ささやかな植樹式を行った。この開園式にはポートランド出身のウォターベリさんや道教委の指導部長も参加、HBCがビデオ撮りしてポートランド市のKG放送局を通じてアメリカでも放映された。6月から7月にかけて見事なバラが開花した。このバラの香りに寄せてオレゴンのリンカーン高校に想いをはせた若者も少なくないだろう。
 最近の交流については後述するが、その後の交流のあらましは次の通りである。

54年10月 本校教員と生徒1名リンカーン高校訪問
55年7月 リンカーン高校の日本語教師来校
56年8月 リンカーン高校生徒2名来校
57年6月〜7月 リンカーン高校の教員・生徒8名がホームステイ交流
57年12月 本校教員と生徒3名がポートランドでホームステイ
58年12月 親善電話交換通話
59年7月 リンカーン高校教員来校
59年9月 本校生徒リンカーン高校訪問
60年8月 リンカーン高校校長ほか2名来校
63年6月 リンカーン高校教員来校
平成元年7月 リンカーン高校教員来校、交流プログラム再開について協議