北陵沿革史〜第2章 開校十年前後

もはや新設校ではない
 五周年を過ぎた頃から「もはや新設校ではない」という言葉がささやかれ始めた。それは草創期の準備期を脱して飛躍しはじめたという意味ではない。旧校舎の生活を経験し、新しい学校作りに汗を流した「旧校舎組」の生徒や父母と、そうした体験のない「そこに高校があるから入ってきた」生徒との間の意識の断層として語られたものである。
 このような意識のずれは五周年の式典の模様を報ずる北陵だよりに既に見られる。「父母の感激とは対照的に在校生にはある種の違和感があったらしく、ざわざわとした感じが―」とあって、父母の手塩にかけた「わが校舎」という意識と、生徒の中学校の指導による「設備の立派な偏差値−−の学校」という意識ではかなりの傾斜があったというべきであろう。
 このことは生徒同士においても同様である。旧校舎を体験した3期生までとそれ以降の生徒とでは、かなり鮮明な考え方の違いが見られる。古い校舎の雑巾がけに汗を流し、石炭ストーブの焚き付けに苦労し、豊平川の河原で野球をした「一条校舎組」と、「屯田の新しい高校に通う生徒」とではおのずから学校に対する思い入れも違ってくる。
 旧校舎組は「不便な生活に耐えながら新しい校舎を造り上げ、北海道のモデル校」として屯田に移ってきたのに対して、新校舎組は「校舎は立派だが何しろ不便、早く帰らされるからクラブ活動もろくにできない」となる。教師団にしても老朽校舎の活用や清掃、新校舎の設計、整備などに心血を注いできた創立初年度、2年組と、新築なった設備の整った職員室に着任した3年度組以降ではおのずから気風も違ってくる。
 北陵高校が屯田に移転した49年には手稲高校が、その翌年50年には丘珠、清田の両校、更に52年には西陵、白石、53年石狩、北広島と続々新設校が誕生する。その後昭和63年迄に更に15校が石狩圏内に新設されるのである。したがって北陵高校が五周年を迎えた頃からの5年間は道立高校の「増設ラッシュ」だった。気がつけば東西南北などの「既存校」よりも新設校の方が多くなり、札幌圏の半数以上の生徒が「新設校」に通う事態となっていく。新設される学校の設備は年々改良が加えられるし、各校は競って新しい試みを取り入れる。こんなわけで北陵高校は次第に「既存校の新しい方の高校」に位置付けられ、新設校というイメージでは見られなくなっていく。
 入学希望者の推移にも「既存校化」の傾向が見られる。一般に新しい高校が開設されると、1、2年はかなり高い倍率を示し、その後1.1〜1.2倍程度に沈静化する。北陵高校も開設された年は3.4倍の高率であったが、その後は1.2倍程度に落ち着いて「やや競争率の高い高校」という印象で受け止められていた。それが近くに石狩高校が開校した52年には当初446名で定員割れ、志願変更で476名と定員を辛うじて上回る状態で選抜試験が行われることになった。この頃から低倍率、あるいは定員割れなどの事態も心配され、生活指導のあり方、大学進学率などが深刻に問われるようになった。


自立・敬愛・進取
 「一人ひとりを大切にし―」という教育目標はあったが、本校には校訓は無かった。経緯はよく分からないが十周年を記念し、分かり易く心に残る校訓を造ろうという機運が開校9年頃に起こり、準備に入った。この種のものは一度制定されるとその後ほぼ永久に残る。それだけに慎重な制定作業が要求された。
 十周年協賛行事係は全校生徒、教職員の意見を集約して4次にわたる審査を行って原案を作成した。その審査基準は次のようなものである。
1.教育目標に合致していること
2.明るく健康的、未来への展望をもっていること
3.語調がよく単純明快であること
4.新時代にマッチしていること
 3代目の校長がそのような基準のもとに集まった候補の中から、共通に持っているイメージを探り、表現スタイルを思案し、個人としての「自立」、自他の関わりにおいての指針「敬愛」、未来を志向し将来を切り開いていく「進取」の3項目とし、前2代の校長の賛意も得て、解説も付して発表した。出来上がった校訓は次のとおりである。

校訓
自立 ― 人に甘えず自己の責任を自覚し、自己を確立する
敬愛 ― 思いやりの心を持ち、自己中心性を脱却する
進取 ― 常に前向きに取り組み、自己を高める努力を怠らない
 開校十周年を記念し、全校生徒、全教職員の総意を結集して定めたものである。
(昭和56年7月24日制定)

 校門を入ってすぐ左手、茂り始めたななかまどの木陰にこの校訓を刻んだ黒御影石の校訓の碑がある。北陵高校の卒業生の父母、旧職員で結成した「陵友会」が、十周年の記念式典の際に寄贈したものである。縁あって北陵高校の生徒の父母となり、我が子に寄せる愛情を校訓の碑に託して、将来の北陵高校の生徒への期待を示したものである。
 校訓それ自体は他とそれほど変わったところはない、とりたてて校訓が意識的に教育活動に生かされているわけでもない。だが衆知を集めて制定された由来と、北陵高校の父母がいかにこの学校の建設にひたむきであったかを物語るエピソードとを、校訓と共に記憶に留めてほしいものである。


十周年を祝う
 昭和56年10月3日、石狩教育局長、石狩管内高校長、中学校長、初代から6代迄のPTA会長、3代目までの後援会長、初、2代本校校長などの来賓を招いて、十周年記念式典が行われた。創業の苦労を偲び今後の発展を期そうというものである。
 十周年を迎えるに当たって様々な事業が企画された。すなわち、北陵十年史の編集、同窓会名簿の編集、VTR「わが北陵」の作成、中庭の整備などである。それまで殺風景だった中庭には芝生が張られ、中央には噴水をあしらった円形の池が造られて、生徒の憩いの場とするものであった。
 五周年記念式典が、北陵高校の屯田に居を据えての地域と父母への挨拶の性格の濃いものであったとすれば、十周年記念式典は創業の時期を終え、続々と建設される石狩管内の先発校として設備、陣容も整った「一人前」の学校としての成人のスタートを祝うものであった。
 設備の面では55年にグラウンドの整備が行われた。更に校舎前面にかけてフェンスも設けられる。10年前に植樹した木々も成長を始め、学園らしいたたずまいが出来上がってくる。
 十周年迄の北陵高校の歩みは「順風満帆」とまではいかなくとも、比較的順調な歩みを辿ったと言ってよい。五周年を記念して発足した公開講座は各方面から注目され、地域に開かれた高校として高く評価された。臨海学校や林間学校の取り組みも、大規模進学校の中でのユニークな取り組みとして評価は概してよかった。姉妹校の取り組みもホームステイ交流が行われ、世間の注目を集めた。進学状況も過年度卒業者も加えると国公立大学に進学する者100名前後と、道内での中堅校として定着するかに見えた。それだけに「今までの路線に間違いはない」というこれまでに取り組みに対する信頼があったのは事実である。
 新設校の場合、10年ほどは校長、教頭などを除くと人事異動はほとんど無い。北陵高校の場合も3年目以降は殆ど同じスタイルで学校が運営されてきた。それだけに2代校長の言のように「述べて造らず」―何事も先例にしたがって運営していく―の傾向も無いではなかった。まして創業当時の取り組みが評判が良かったとすれば、いきおい先例が尊重される傾向があったとしても不思議ではない。ともあれ、十年一昔の例えの如く、地域の状況も生徒の意識の面も急速に変わりつつあった。


守成は難く
 人生がそうであるように、学校の歴史も平坦な道ばかりではない。何をやってもうまくいく時もあれば、次々と芳しくないことが続くこともある。ここではそんな苦難の時期のことについて触れなければならない。
 多くの新設校は殆どが地下鉄や鉄道、幹線道路から外れた郊外に立地されているが、本校もその例にもれない。自転車を使えない時期は特にそうであるが、麻生から北陵高校行きのバスは混雑を極める。本校の半分以上の生徒が麻生に集まり、そこから一斉に本校に向かうからだ。登校に使うバスは専用バスではない。そのため生徒間の日常の人間関係や生活態度がもろに出やすく、それにまつわるトラブルも起きがちなのである。一般乗客からは北陵高校の生徒が通路を明けてくれないから降りられなかったといった苦情が寄せられるし、生徒からは待っていたのに止まらなかった、バスに積み残されたなどの訴えがよく出された。
 そんな中で開校10年目の56年には本校生徒とバス乗務員の間に、新聞に大きく報道されるようなトラブルも起きた。「乗せろ」「乗せられない」「つめろ」「もうつめられない」といった些細なことから暴力事件に発展したものらしいが、本校への影響は大きいものと考えねばならなかった。学校としては、更に気を遣ってのバス乗車指導を行うことになった。
 服装の点でも頭を悩ますことが多かった。制定当時はスマートだと評判のよかった本校の制服も、10年もたってみると同じような制服や、更にはもっとスマートな制服も現れ始めた。本校の場合、制服はあってもネクタイの着用や、シャツの色などの規制がゆるく、だらしがないとも見られがちだった。多くの新設校が「服装の乱れは生活の乱れに通ずる」として厳しく規制をする中で、北陵のブレザーにノーネクタイ姿は目立ったし、「大丈夫か」と見られたのも事実である。このような経緯もあって昭和63年からはネクタイ着用が義務付けられるようになった。
 制服だけなくあらゆる面で厳しい競合状態が生まれつつあった。前に述べたように進学の状況は15年目くらいまではずっと上昇傾向にあったが、本校への入学希望者の減少の傾向も続いていた。特に昭和57年度には丙午のせいもあって40名程も定員に足りず、二次募集を行って定員を埋めた。更に62年にも定員に満たず、十数名を二次募集で満たすという現象が生まれた。北陵高校はやや学力の高い学校というランク付けもされていたので「あそこはやや難しいから無理ではないか」と敬遠する向きもあったし、「是非北陵でなければ」という積極派も少ないようでもあった。ともあれこのように二次募集を行うような事態が起きると、入試の学力点、内申点は大幅に下がる。それを地方月刊誌が書き立て、北陵高校の入試の際の学力点や内申点は数年間下がる傾向を辿るのである。
 創業は易く守成は難しとか、あらゆる点で「守成」の難しさを実感させる何年間かであった。