北陵沿革史〜第3章 成人への旅立ち

世界を視野に
 北陵高校とリンカーン高校との姉妹校提携については第1章で述べた如くであるが、初めのうちはなかなか交流の実はあがらなかった。外貨事情からしても、政府がしきりに海外旅行を勧めるような時代ではなかった。そのために人的な交流が難しく(特に日本からアメリカに行く人数が限られた)、手紙や電話で交流するような時期もあったが、もどかしさもつきまとっていた。
 平成元年7月、リンカーン高校のジョーンズ先生が途絶えていたホームステイ生徒交換プログラム再開の協議のために来校した。その結果、平成2年の冬に本校の生徒数名がリンカーン高校のPTA宅にホームステイし、平成3年夏にはリンカーン高校生数名を札幌に迎え、北陵高校PTA会員宅にホームステイしてもらうという計画が合意された。
 平成2年12月20日、本校の教員に引率された男子2名、女子6名の今までで最大の交流団が、22日間の研修旅行に出発した。交流の内容は昭和57年の3人の生徒の日程とほぼ同じで、12月20日〜1月2日迄のクリスマス・新年の期間ポートランドの各家族でホームステイ、1月3日〜8日までのリンカーン高校の授業出席などの日程が組まれていた。
 交流団の多くは気さくで心豊かなホストファミリーのもてなしに感激の毎日だった。心のこもったクリスマスの贈り物に心を打たれ「私達の家はあなたの家なのですよ」と自由に振る舞うことをすすめられて嬉しくなり、同年代の高校生と買い物に出かけたり、ファミコンをしたり、楽しい交流をしている。なかにはベビーシッター(子守のアルバイト)につき合って、子供と一緒になって紙飛行機を飛ばして遊んでしまい、不興をこうむるなど得難い経験をした生徒もいた。
 ときは湾岸戦争勃発の前夜であった。社会科の授業が行われる教室には「サダムを倒せ」「世界で最も危険な男」などのポスターが貼ってあるのを見たり、若者を湾岸に送った家庭の無事な帰還を願うメールボックスに巻き付けられた黄色いリボンを目の当たりにして、「日本はこれでいいのか」と考え込む生徒もいた。リンカーン高校の玄関に散らばる煙草の吸い殻や、ゴミ箱をあさる黒人のホームレスの姿にアメリカの陰の部分を垣間見る思いも味わった。
 今回の交流では先生の指示で研修レポートの提出が求められた。それだけにただ単なる物見遊山ではない研修のあとが見られる。例えば札幌とポートランドの物価を比較したもの、教育制度や教師の仕事の違いに目を向けたもの、アメリカ人の中にある人種差別問題を考えたもの、日米の文化や国民性の違いを検討するものなど、総じて表面的な部分だけでなく冷静に経済、政治、歴史も視野に入れた観察になっている。
 平成3年7月、ジョーンズ先生に引率された男子3名、女子5名のリンカーン高校の交流団が訪れた。一行は本校の姉妹校委員会の受け入れ計画に従って、登録されたホストファミリーにホームステイ、授業参観、日本文化講座の受講、本校の林間学校などに参加するなど友好をあたためていった。この交流にはリンカーン高校のジョーンズ先生の長年の努力と、本校に緻密さと大胆さとを兼ね備えた推進役の人を得たことが、あずかって力があったことを付記しておきたい。


でっかいことをやろうよ
 北陵高校の学校祭は開校2年目の48年7月に第1回北陵祭「今はばたくとき」を行ってから今年(平成3年)で19回を迎える。学校祭の内容は行灯行列、展示、ステージ発表など、どこでもやっているようなものが行われているが、最近は屋外の大きな装飾が手がけられるようになった。これは生徒会の今までのマンネリを打破して大きなことをやろうよ、という呼びかけにもよるものである。
 昭和63年には「空き缶大壁画」が登場する。これは6,100個の空き缶を使った縦6メートル、横7メートルほどの大壁画で校舎の前面、2・3階を覆う大きなもので、遠目にもよく見え、風が出ると全体がかすかに揺れ写楽の表情や色調が微妙な変化を見せた。数社の新聞も取材に訪れ好意的な報道をしてくれて、ちょっとした地域の話題になった。生徒の手記は語る。
 「準備はまず1万個を越える空き缶集めから始まった。缶洗い、色分け、そして屋上からのつり下げと進んだのですが、一番苦労したのはやはりつり下げ作業だったと思います。当日は最悪の天候で、雨の中何時間もかけて気を遣いながら作業を行いました。それだけに次第に出来上がっていくのが感動的でした。そしてついに6,100個の缶壁画の写楽が出来上がったときは心のそこからほっとしました。それだけに2日後の取り外しは身を切られるように残念でした。」
 翌年の平成3年には布を張り合わせた巨大がモナ・リザの絵が飾られる。学校祭期間中心配された雨風にも耐えて、作成した3年生のクラスはほっとしたものだった。これまた新聞に紹介されて北陵高校の生徒に一種の自信を与えてくれた。今年は校舎正面をイルミネーションで飾る。
 平成2年度の生徒会長はブラスバンドの創設に力を注いだ。北陵高校には、学校祭その他のイベントを盛り上げてくれる楽隊がなく寂しい思いをしてきた。それだけに生徒のブラスバンドの創設に対する要望は強かった。職員の間では、ブラスバンドでもあればという声があがっても、予算、練習場所、指導者など考えねばならないことが多く、話が起きてもいつか立ち消えになってしまう。ところが生徒の方となるともっと直裁的で行動的である。「学校祭の行灯行列、ただ歩くだけでは寂しいわね」「そうよ、バンド編成して先頭を歩こうよ、中学校でもやっていた人が結構いるんだろう」といった調子で楽器を借り集め、即製の鼓笛隊を編成してしまった。
 これは、二十周年記念事業の一環としてブラスバンドを編成しようという一部父母の強い要望があり、父母、生徒の中の待望の機運があったのを捉えたもので、タイミングのようい提起だったのである。ともあれ鼓笛隊は好評でブラスバンド編成に道を開くものとして更に期待が高まった。生徒会長は学校祭の閉会式で再度訴えた。「私達で大きなことをしましょう。ブラスバンドを造ろうではありませんか」と。
 ブラスバンドの創設は「二十周年記念事業としてはいまだその機が熟さず」ということで記念事業からは外されていた。だがこのような生徒の動きは、一旦消えかかっていたブラスバンド創設の芽を再び生き返らせた。生徒会は吹奏楽局の設置を提案、可決。平成3年5月のPTA総会には、吹奏楽局編成の補助に関する動議が出されて、長時間にわたる審議の末、予算に楽器購入の項目を設け、吹奏楽局を後援することになった。その他多額の寄の申し出や同窓会の援助もあって生徒の熱意は実を結ぶことになる。


21世紀に向けて、地域に根ざせ
 昭和63年の9月、ささやかではあるが今後の指針を暗示するような朗報があった。この年の11月から、石狩町花川地区と北陵高校の間に朝1便だけだが通学生専用バスが運行されるようになったのである。その頃北陵高校には花川地区から70名ほどの通学生があった。夏は自転車で10分ほどの距離であるが冬になると大変不便になる。花川南を経由して一旦麻生に出て、それから北陵高校行きのバスに乗らねばならず、費用の面でも時間の点でも(50分ほどかかる)この地区の人々の悩みの種であった。それがこの年の夏以来の父母、PTA役員、学校などの運動が実って通学バスの運行が実現したのである。
 これは小さなことではあったが意義深いことであった。父母とともに教育問題を考え、父母の要望を生かすところに学校発展の展望があるという示唆である。これを機会に花川地区からの北陵進学希望者は大幅に増えたし、PTAの地域教育懇談会には中学生の父母も参加するなど、地域との関係が進んでいる。平成2年の冬休みからは、往復の通学バスが運行されることになって更に便利になった。この運動を続けてきた「北陵高校バスの会」では、花川地区の北陵高校生にこのバスを利用することで感謝の念を表し、併せてその存続を図ろうとしている。
 平成元年からは十数年ぶりでPTA主催の地域教育懇談会も行われるようになった。太平、屯田、新琴似、花川など4地区程度であるが、学校で行う懇談会とはひと味違って、父母からの提言、発言も多く、「ホンネで語りあえた」と好評であった。この取り組みは現在の大学区制度のもとでは困難な面もあるが、地域の教育力を生かすという意味でも重要な課題となるのではあるまいか。
 北陵高校の施設面での整備は次第に進んでいる。待望久しかった第2体育館も着工したし、グラウンドの整備も進行中である。「臨時応急措置」として設けられていた31学級の超過密状態も来年からは解消されるはずだ。設備の面でも贅沢を言えばきりがないが次第に充実してきている。21世紀に向けて着実に準備が進んでいるといえようか。
 今は1991年、北陵高校の三十周年は21世紀初頭に迎えることになる。21世紀に向けて否応なしに国際化は進むであろうし、社会や父母の高校や大学に向ける期待も変わるであろう。学校は常に地域に根ざし、世界を視野におかねばならぬ所以である。最後にこの北陵高校の卒業生の本校に対する期待の言葉を紹介して、この項を終わりとしたい。
 「私が教職の道を選んだのは、子供が大変好きだったということはもちろんですが、北陵高校で過ごした3年間があればこそと思うのです。(中略)何がそうさせたのか、それは今でもよくわかりませんが、その当時に北陵高校に満ちあふれていたフロンティア精神が影響を与えた、ということだけは確かのようです。
 (中略)当時は、一生懸命やっているならそれを認めて援助していこうという、先生方の温かいご配慮がありました。共に北陵高校を創っていこうという、フロンティア精神がありました。それが、私を教職の道へと向かわせたのかもしれません。
 高校時代は、自分の進む道を探していく大切なときです。私の母校、北陵高校がこれからも多くの後輩に夢を与えてくれることを望んでやみません。」