回顧二十年

いらか(甍)巍々たり
初代校長

 「甍(いらか)巍々たり」という言葉(私が瀬戸先生に話した)を校歌の歌詞の中に見出した時、国語の先生方が「こんな言葉は知らない。今更こんな難しい言葉を使わなくても」と言った。「天平の甍」という岩波の写真文庫が出たのは戦前であったろうか。話題になったので知らないことはないのであろうが、この言葉のイメージが今の時代に合わない、封建的な臭いのする言葉はこれから発展する新しい学校にはふさわしくない、ということなのであろう。勿論、この言葉は城郭・寺院のような瓦葺きの屋根が高く、大きく、堂々と聳え立つさま、換言すれば、城―天守閣―封建領主―権威・権力のシンボルということになり、一般大衆を見下ろし、見上げさせる、非民主的なものの権化を現すといってもよかろう。そんなものは現実にはないし誤解されるような亡霊を持ち出さなくてもよいのではないかということであろう。
 こうしたイメージは私は否定しない。しかし、仰ぎ見られるのは外面的外形的壮大さだけであろうか。城郭のような遊廓が昔はあった。以前に地方視察をして、大きくて色彩ギラギラの小学校舎、大学や病院と見まごう中学校舎などを見かけたことがある。高大さや堂々とした形だけでなく、そこに感得される品格が、精神的な高貴さがあってこそ仰ぎ見られるのではないだろうか。虚仮おどしの壮大さや飾りだては、かえって品格を貶めるものであろう。高貴に感じさせるものは建物だけではない。その周囲の状況などから中に住む者の心ばえも含めて精神的な高貴さが人の心を打つものであろう。
 学校創設の時まず考えたのは、生徒、教職員、父母がここに集い、共汗同苦、苦労しながらも楽しい生活を展開し、新しい学校づくりに励むことによって、ここに学び、ここに勤務したことが矜恃・生き甲斐となる、そんな学校にしたいということであった。そして道内で初めての校名公募がなされ、「北海道の最高峰を志向して立派な学校に生々発展するように」と北陵と命名されたのもその故であった。この願いが「甍巍々たり わが校舎」と表現され、それは「生徒の未来を拓く宮」として、そこから英知に燃えて、未来を拓く抱負・個性・不屈の精神を体得した人材が輩出することを願うものであった。
 そこでは自由と規律が調和し、生徒、教職員、父母が相互に尊重し合い、教育経営上の教員・職員の役割を相互に理解し、父母も含めて各自の職分を果たす、その総合力が教育を推進する。さらに地域に開放され、地域の学校になることが今後のあり方であろう。
 そこで諸事平準化される世の中で忘れてはならないのは、Noblesse Obligeということである。
 北陵高校が二十周年を迎える。誠におめでたい。この間の先生方、生徒、父母、卒業生、地域の方々の絶大なご努力、ご協力に深く敬意と感謝の意を表すると共に、今後一層のご発展を願うものである。


あの日、あの時を偲んで
二代校長

 記念誌原稿の依頼を受けたものの、退職してからすでに10年、過去茫々として想定まらぬまま、うかうかと7月を迎えてしまった。ふと十周年記念誌のあったことを思い出し、やっと探し出してみた。「創立十周年を祝して―過ぎし日の回想」と題しての拙文を読み返した。私なりに在職4年間の思い出を述べ盡しているよな気がした。これ以上何を語ることがあろうかの思いだった。
 思えば、私が北陵高校に迎えられたのは52年の4月だった。入学式の日の朝、校舎の屋上高く日章旗が翻っているのを見て感激を新たにしたものだった。あれから4年間、照る日曇る日の日々を懸命に勤め続けて、56年の3月末に退職した。その最後のころの思い出の一つに「さよなら講義」があった。私の知らないところで、ひそかに計画が進められていたらしい。おそらく何人かの先生方の発案によるものだったのだろう。あの年退職するのは私だけではなく、他に2人の先生もご一緒だった。3人一緒ということもあって「ご勇退記念、さよなら講義」ということに相成ったのだろう。大学あたりでは必ずといっていいほど退官記念特別講義などが行われるだろうが、高校としては極めて珍しい試みだったのでは。
 この企画の全貌を聞いた時、私は少々ならず戸惑い、そして慌てた。他のお二人は抵抗を感じないだろうが、私は教壇を離れてから約20年(36年9月、札北高を去ってから)、正直言って大変なことになったと思った。とはいえ、私だけが抜けることは許されないまま、意を決して引き受けた。忘れもしない、3月19日の4校時、視聴覚教室で「わが心のうちなる歌」と題して50分私なりの人生の生き甲斐について、若い生徒諸君に語った。50分という時間が私にはかなり長く感じられた(この時の50分という1回限りの経験のカンが、後々大学、短大での講義の進め方に役立つことになろうとは)。終わって代表の生徒から感謝の言葉に添えて花束が贈られた。私はすっかり感動した。私たち退職する者に対するそこまでの温かい心配りに。
 私はその時の「しおり」に<HAPPY RETIREMENT>と題して小文を添えた。そのしめくくりとして「今日までの38年間、教職の一本道に様々の明暗、苦楽があった。それでも耐えて一筋に貫き通した。今にして一抹の悔いも嘆きもない。今はただ<HAPPY RETIREMENT>の心境。」と綴った。10年たった今もその気持ちは微塵も変わらない。
 私は退職する時せめてもの記念にと楓の成木を植樹してきた。あれから10年、きっと元気で成長してくれていることだろう。ところで、北陵のシンボルともいえる校舎前庭のおんこの木は20年たった今、学校とともに栄えていることだろうか。来る10月6日の記念式典の日、久々に御対面できることを心待ちにしている今日このごろである。


校名「北陵」と大雪登山行
三代校長

 私が旭川西高校に勤めていたとき 新しく着任された校長先生は「生徒は卒業したのち皆が旭川に住むわけではない。遠く北海道を離れて暮らす者もいよう。折角旭岳を目の前にしながらこのまま登らぬではもったいない。卒業する前の3年生を全員旭岳に連れて行こう。その経験は共通の思い出となるばかりでなく、何か事あったとき人生を生き抜く励ましとなるに違いない」と話され、それから毎年夏休みに入った初日、バス10台を仕立てて勇駒別まで行き、500余名が北海道の最高峰2,290メートルの旭岳に登った。私は、先生のお考えは文字通り卓見だと感激した。
 さて話は変わるが、私が北陵に着任した1年目、姉妹校リンカーン高校から7名の女生徒が交換留学で来校した。ある日、引率の先生がいぶかしげに私に訊ねた。
 「学校のオハカ、ドコニアリマスカ?」
 私はびっくりした。すると先生は「北陵は北のミササギデショ」―北大で日本文学を研究したという先生は「御陵」とと取り違えたのである。私はあわてて「オハカではない。オカです。御陵ではない、丘陵です」と説明したら「ソレハ、ドコニアリマスカ?」とまるで学校の裏手にもあるかのように重ねて訊ねた。
 現在、市内には東陵・西陵・南陵・北陵と陵のつく高校が4校ある。そのせいか校名の意味するところが鮮明でなくなったようだが、「北陵」は創立にあたって公募された校名で「北海道の最高峰」を意味している。
 さて北陵では2年生の希望者を募って旭岳に登る。校名の精神を体で確認するのだ。
 57年の7月31日、教師12名、生徒57名の一行は旭岳野営場のテントで一夜を明かし、翌8月1日登山を決行した。コースは姿見の池を経て旭岳頂上に登り、次に反対側斜面の雪渓を下って再び間宮岳、中岳、北鎮岳を踏破し、そこからとって返して中岳温泉を経て裾合平に下り、お花畑を抜け夫婦沼を経て野営場へ戻るのである。
 当日は雲ひとつない絶好の晴天であった。「天佑」という文字が頭にひらめいた。
 登りはさすがにきつかった。はじめは先頭に立つが、10分もするといちばんビリ、さらに10分もするとみんなは前方のこぶを廻って見えなくなる。私は「六根清浄、お山は晴天」と声を出しながら、そのリズムに合わせて登った。
 下山はロープウェイに乗らず、最後まで頑張って歩いた。みんなはぴょんぴょん跳ぶようにしてどんどん先に行ってしまった。
 白い色を溶かしこんだような青空、陽の輝き、樹木の匂いが無性に大切なものに思えてくる。急いで下りるのがもったいない。一歩、歩高クシテ光景ヒラクゥ・・・・・・とか、踏ミヤブル千山万岳ノケムリィ・・・・・・、そんな文句が口を衝いて出る。満足しているのだった。
 北陵高よ、栄えあれ。


教育の充実を目指して
四代校長

 私が本校に在職したのは、昭和59年4月から61年3月までの2年間で、ここを最後に36年間の教職を終えた。
 顧みると、赴任する前に抱いていた北陵のイメージと、着任してから見た現実との間には、少なからずギャップがあり、心痛むことが数多くあった。
 生徒の一人ひとりは恵まれた素質を持ち、良い人たちばかりなのに、全体としては活気がなく、連帯感が薄いように思われた。みんなで力を合わせ頑張ろうというファイトが乏しく、集団として燃えていないのである。
 たとえば校歌の合唱、蚊が鳴くような声で歌っている生徒、照れくさいのか関心がないのかまるっきり口を動かさない生徒、とても1,300人の若者の歌とは思えない。
 高体連の大会は、地区大会でさえほとんどが負けてくる。ベスト8に進出できれば上出来という状況であった。
 私は生徒・教員に、10間口の学校で優勝杯の一つも持ってこれぬ不甲斐なさを訴えた。敗れて口惜しい涙の出ないような者は所詮強くはなれない。勝敗だけにこだわるのではないが、日頃の練習や努力が勝敗の重要な決め手と考える。部活動の目的は勝つことにあるのでははいなどと建前論を振りかざすのは、負け犬の遠吠えだ、と激励した。
 着任した年、私は教職員に今後の努力目標として、次の3点を示した。
1.学力の向上
 本校生との90%は進学を目指し、いわゆる受験勉強と無縁ではいられない。就職希望者は採用試験で学力を問われることになる。いかに高校生活を楽しく過ごしたとしても、巣立ちの第一歩で落伍の憂き目をみるようでは悔いが残る。必要な学力を身につけるため、教育課程、学習指導法、学校行事の再検討が必要である。
2.社会生活に必要な徳性の涵養
 本校生徒の行動を見ると、悪意はないのだがけじめがなく、自己中心的で他を思いやる心に欠けるところがある。これは基本的生活習慣が確立していないことによる。礼儀、規律、清掃、奉仕活動の指導について再検討が必要である。
3.部活動の活発化
 部活動が活発になれば学校に活気が出てくる。大会で優勝することによって得られる教育効果も大きいものがある。部活と学習の両立は容易でないが、やり抜く高校生も決して少なくない。北陵の〇〇部はすごい、と言われるような伝統をつくることはできないだろうか。

 教職員、生徒ともによく頑張ってくれた。1年間欠席・遅刻・早退なしの皆勤者は、各クラスとも4〜5名。60年3月の進学成績は開校以来の記録、公務員試験合格者は倍増、60年度の高体連全国大会出場者は、前年の3倍増であった。


62総体総合開会式のこと
五代校長

 私が北陵高校に赴任したのは昭和61年春のことで、それまで高体連、高野連の札幌支部長校であった北陵は2年の任期を終えて次の担当校に引き継ぐ予定になっておりました。
 ところが私が北陵に赴任することになって急遽札幌支部長校をもう1期続けて欲しいということになり、その後私の在任中に道高体連の会長校も引き受けることになって、体育科の先生方や事務の方々には、大変なご苦労をかけることになってしまいました。
 当時他移動の高校スポーツ界では、昭和62年に北海道での開催が決まっていた全国高校総合体育大会を1年後にひかえて、高校生の一人一役運動なども含め、種目別開催市町村のご協力をいただきながら大会の成功を目指して大いに盛り上がっている時期でありました。
 特に大会にはじめに行われる総合開会式には、吹奏楽隊、合唱隊をはじめとして、マスゲーム、マーチングバンドなどの出演が予定されていて、すでに何年か前に決まっていた出演予定の高校では、その練習に余念がなかったものでした。
 その中で開会式の標旗の保持者2名、国旗、高体連旗、北海道旗を持って更新する各男子3名、女子3名の選考については、いろいろの経緯がありましたが、最終的に標旗は道高体連の会長校である丘珠高校の生徒2名が、国旗等三旗については道高体連の副会長校の北陵、開成、札商の3校からそれぞれ選出するということに決定いたしました。
 三旗の中でも先頭を行進する国旗を保持することになった本校では、体育科や学年の先生方とも相談して、2年生の運動部員の中から比較的身長の揃った男子3名、女子3名に出場してもらうことになりました。
 沢山の観衆の前で、しかも殆ど先頭を切って行進するという大役に、選ばれた生徒諸君もかなり緊張の色を隠せなかったようですが、腕の振りを揃えたり、6人一斉に旗を持ち上げる動作など、学校のグラウンドでも何回も練習を重ねて本大会に臨んだものです。
 開会式当日は薄曇りの肌寒い天候でしたが、皇太子殿下、妃殿下のご臨席をいただき、スタンドを埋め尽くした大観衆の前で、この6人は堂々の行進ぶりを見せてくれました。
 当日私は北海道選手団長として北海道選手団の先頭を行進しましたので、直接この6人の諸君の行進ぶりを見ることは出来ませんでしたが、後でビデオなどで見る限り、練習通りの立派な行進ぶりだったと思います。
 あの時は北陵の全校生徒も中継のテレビ放送等を通して、大きな関心を持って見つめていたに違いないと思います。
 あの6人にとっては全く思いがけない体験だったろうと思いますが、62総体の総合開会式で6人の北陵生が国旗を保持して行進したことは、長く歴史に残るに違いありません。


リンカーン高校と交流のこと
六代校長

 平成元年7月中旬、1学期も残り少ない頃、姉妹校のポートランド市リンカーン高校のジョーンズ先生の訪問を突然受けました。目的は北陵とリンカーンとのホームステイ交換プログラムを再開したいとのことです。校長室に掲げられている両校の姉妹校メモランダムを毎日眺めておっただけに、内心「事来たれりか」と、ジョーンズ先生の意向を伺いました。しばらく途絶えていた交換のことですから、慎重にかつ成功へと導くことを願いながら言葉を選びつつ再開を約束しました。といっても実務となるといま少し話を煮詰めなければなりません。担当の先生と具体的に交換していただこうと早速2階の職員室へとご案内をしました。階段を昇って間もなくジョーンズ先生の質問を受けました。
 「校長先生、この学校は昼休みなどに生徒を校外に自由解放しているのですか」
 「そんなことはありません。始業から放課後までの時間は校内におることが原則の規律ですよ。多くの生徒諸君は守っています。」
 「アメリカでは承知のとおり、一歩校外に出ると危険が待ち受けています。この学校の前の通りも車が多く走って危ないですね」と、どうやら日本の社会事情にも通じているらしい。続いての質問が次のようでした。
 「あの廊下の片隅にある棒は何ですか」
 「はい、あれは放課後、生徒たちが掃除をするときに使うモップです。」
 「ほう。自分たちの使用した校舎を毎日掃除するんですね。これは大変素晴らしいことです。アメリカでは掃除婦がいて一般的に考えられないことです。これからもぜひ続けてください。」
 学校掃除については、賛成・反対の二論がわが日本にもある。人間形成論と健康衛生論などがそれである。難しいことは別として自分の使用したところは自分がきちんと掃除して次に備える、この当たり前のことをアメリカの教師は賛同してくれたのです。
 さて北陵との交換をこの冬休みに実行したい。クリスマスから約3週間、来夏は日本でということです。生徒に参加希望をとるとたくさんの応募がありました。しかしホームステイを日本でも整えるということになると中々難しく、家庭でも家族、親族会議を開いて検討したところもあり、ホームステイを引き受ける家庭は2つ。初年度は断念せざるを得ませんでした。本年度見送りの手紙を先方に送ると、約束が違う、貴校がだめなら他の学校と交換するという返事。イエスかノーである。もはやこれまでかと思っていましたが、本校の先生がこちらの事情を粘り強く何回も説明し、1年伸ばししていただきました。
 こうして紆余曲折、平成2年の両校交換となったわけです。教頭先生を軸として2名の先生の並々ならぬご努力、そしてこれをご理解し、ご支援を頂いた後援会長などのお力でようやく交流再開に漕ぎつけました。今後の交流発展を切に祈ります。
 北陵高校も早20年。人間ならさしづめ成人。北の最高峰を目指しての益々のご発展を祈念します。お世話になったPTA、後援会の父母の皆様、そして同窓生、生徒諸君、私をいつも励ましてくれた同僚の先生方のご多幸を祈ります。


風雪に耐えるシンボルと共に ― 一層の発展を念願して ―
初代事務長

 札幌北陵高校開校二十周年を迎えて、記念誌が刊行されることは大変意義深いことで、創設準備期からの5年間を道関係で最後の勤務をし、同校の成長発展を念願してきた私にとって、まことに感慨深いものがある。
 当時道立教育研究所の移転再発足、池づくりなど外構整備工事も軌道に乗り、そろそろ自らの身の振り方を考えていた矢先、市内人口の急激な増加の実情から、教育界には高校新設の世論が高まりつつあった。ある予感が的中し、校長予定者に内定した本間末五郎先生との話し合いで、新設校づくりに全力投球しようと決心したのであった。
 北陵高校は、啓成高校開校以来6年ぶりの開校で、高い理想を掲げたモデル校を目指し、教職員組織も教頭を中心に教育熱心な若手教師が選考され、事務系では2人のベテランに来てもらった。本間先生の方針もあり、人の和を図るため、懇談の機会を多く作り、大いに話し合ったものであった。
 冬季オリンピック開会中開校事務室を仮校舎に移して開校準備は本格化した。汚れ放題だった仮校舎も予め集合した生徒と職員総出で床板磨き、窓硝子掃除に汗を流し、見違えるように磨き上げられ、新しい制服に身を固めた180名の新入生が、頬を紅潮させて入学式に臨んだ当時のことが思い出される。
 新校舎づくりは、放課後全員が事務室に集まり、先生方が持ち寄ったアイデアを規定面積の枠内でどう具体化するか、深夜まで議論したものであった。教育工学室、視聴覚室、生徒相談室、多目的ホールなど、その後の新設校では組み込まれ、その意味では先駆的役割を果たしたのであった。
 平面計画素案ができると、道工営課とも打合せを重ね案は固まっていった。校地も決まり杭打工事から着工されたが、円滑に運ぶよう建築促進期成会も結成され、父母による陳情活動や現場慰問も行われた。当時オイルショックに見舞われるなど、決して順調ではなかった。関係方面の理解と努力によって新校舎は遂に完成、鳩と共に暮らした仮校舎から引越しできた時の喜びはひとしおのものがあった。
 北陵高校の通学区域は、当時市内全域であり、各地域にまたがっていたので、生徒の実態調査をし通学路線の拡幅整備を市議会にも陳情し、街路灯も設置してもらったのであった。通学バスの必要便数運行を中央バスに数多く出向いたことも懐かしい。
 西北方向が低い校地のグラウンド造成には思い出が多い。土盛りのための大量の土量をどこから貰い受けるか、近代美術館建築地の良質の砂礫土運搬が実現し、一方地下鉄南北線工事の捨土も運んで貰ったのであった。
 私にとって一番の思い出は、当別町の安藤氏の斡旋により、浜益村道有林から立派なオンコの名木を譲り受け、校舎玄関前に定植できたことである。後任者諸氏の努力により現在も風雪に耐えて、シンボルとして威厳を今に伝え、北陵高校の将来を見守ってくれている。一層の長命を願ってやまない。


北陵が語りかけるもの
旧職員

 北陵には、テーマがありました。

 「一人一人を大切にする。」

 入学式には新入生の顔と名前とが一致しているようにすることから始めました。毎朝、ショートホームルームで一人一人の名前を呼び、返事からその日の調子を占いました。昼休みには、教室に行ったり体育館に出たりして、おしゃべりをしたり遊んだりしました。掃除のときも当番の生徒とよく話をしました。個人面談も計画的に行いました。基礎学力向上のための補習、進学や就職のための講習にも取り組みました。もちろん、授業でも一斉指導と個別指導のバランスに配慮しました。
 こう書いてきますと、「一人一人を大切にする」具体的な教育活動は、どこの学校でも日常行われていることとなんら変わりがないことに気づきます。
 北陵で行われていたことは、どこの学校とも変わることがなかったにもかかわらず、北陵はどの学校とも違っていたように感じています。
 それは何であったのか。
 今にして思えば、北陵にはずいぶんとくせのある教員、よく言えば、個性的な教員が集まっていました。号令一下全員が一つの方向に走り出すという仕組みにはなじみにくい、いずれも一家言を持ったものの集まりでした。
 指導方針について共通理解はできていても、具体的な取り組みについては各人各様であったように思いますし、またそれがある程度許されていたようにも思います。
 内輪話になりますが、ネームプレート着装問題もその一例になるかと思っております。この問題に対する共同行動から逸脱していた私がこう書くと言い訳になりますが、共通理解による共同行動というものは、危機管理という特殊場面における特殊な行動様式ではないかと考えるからです。
 今日、個性の伸長が強調されております。個性は、画一的な環境では育ちません、とまでは言い切れないにしても、様々な個性がぶつかり合いながら互いに認め合うところに、個性の伸長があることは間違いないと思います。
 北陵にはそれがあったと思うのです。
 管理職が同時に指導職であり、確固とした教育哲学を持ち、教員の個性を最大限に発揮させようとするゆとりと忍耐、それらが北陵にあったと思うのです。
 成員の個性を最大限に発揮することから生ずるエネルギーが大きな成果を生むと考えていたように思うのです。
 「一人一人を大切にする。」これは、私たち教職員に対するテーマでもあったのでした。


地域の交流を求めて
旧職員

 北陵高校からのお電話で、「何かしら・・・。」と気がかりでした。「記念事業の一環として二十周年記念誌を発行することになりましたので、原稿をお願いしたいので・・・。」とおっしゃいましたので、即座に「どなたかにお願いして下さい。とても書けません。」とお断りしました。「何でもよいのです。話し合いで決まったのです。」と、長距離電話なので押し問答もできませず引き受ける結果になてしまいました。2日後に届いた原稿依頼文を前にして後悔しているうちに、締め切り日が迫ってきました。
 公開講座をふりかえってみたいと思います。社会教育として地域の人々との交わりを考え、少しでもお役に立てればと思って引き受けました。学校と地域の結びつきが密になり、人と人との交流が生まれ、生徒・父母・教師の心のつながりを願って携わってきたのです。趣味の講座として、私が魅せられて20年間続けてきた皮革染を選びました。これは時間のかかる作業なので、限られた時間では僅かしかできませず、6時過ぎることがほとんどでした。熱中して時間の経つのもわかりませず、一段落つくまでお手伝いしていますと外は暗くなっています。
 短い時間で効果をあげたいと思い、技術的に難しいところ、失敗しやすいところなどの要領、道具の使い方・方法を細かく一人一人手を取って覚えていただきました。器用な方が多く、初めてとは思えない上達ぶりで興味を持った方たちだったと思います。
 病みつきになられた方、作品を眺めて喜ばれる方たちを見まして、とても嬉しく思いました。生徒が母親から頼まれた作品を持って準備室に質問に来るようになったのです。説明だけではわからないので技術指導をしましたところ、物をつくる楽しさがわかったのでしょうか、たびたび来るようになりました。このことが心のふれあいになれば、又精神的な糧になればと思いました。昼食時間・放課後と食事の時間もなく多忙でしたが、母親・生徒の要望に応じられればと思い時間のある限り指導しました。少しは“心”が通じたのではと考えましたが、これは私の独り合点だと思います。
 公開講座がきっかけで、屯田地区の方たちが集まって皮革染をしていらっしゃることを北区広報で知り、「お役に立ててよかった」と思っています。
 価値観が多様化して個々人の物の見方・考え方が大きく変わり、世代間のギャップや利害の対立を生み、精神の荒廃も進んでいる現在です。教師に課せられた使命は厳しく重いものと自覚しています。まことの教育とは、まことの幸せとは、まことの自由とは、世代を越えた価値観はないのでしょうか・・・、など深く考えさせられます。
 一人一人がどう考え、どう生きるかが必要だと思います。手探りでも一条の光を求めて前に進みたいと思っています。


開校当時を偲んで
初代PTA会長

 今回はからずも北陵高等学校の開校二十周年を迎えての記念誌の発行に寄稿する機会を得ましたことは、誠に嬉しくまた当時を偲び感無量でいっぱいです。
 思えば昭和47年4月10日、「北海道の最高峰を志向して立派な学校に生々発展してほしい」という各界の絶大な期待を寄せられたが、1年早く旧一条中学校跡の古びた仮校舎で呱々の声をあげてより、早二十星霜。仮校舎の教室では鳩のふんに悩ませられ、屋内運動場では狭さと高さのなさで球技に困り、屋外運動場も狭く豊平川の敷地を借用していた時代が、今にしても鮮明によみがえります。
 特に私にとって忘れられないのが、初代PTAの会長という要職を拝命したことでした。開校と同時にPTAも発足したのですが、当時私は単なる一介の建築技術者で教育界は勿論、PTAのことに関してはまったく盲目同然でした。当時は生徒数180名、先生も17人でしたので、父母の会員の数の少なさにもって高校のPTAは初めてという方々が多かったと記憶しております。その中での活動でした。まずは新校舎の早期着工促進と会員の親睦と意志の疎通でした。北陵だよりの発行や建設促進期成会の発足等その最たるものでした。暗中模索の中で事あるごとに皆で考え、そして話し合いの日々でした。幸いに当時の本間校長先生、事務長さんや諸先生方の温かくそして積極的な御協力、御支援がなければ到底やってゆけなかったのではと思い、それにつけても当時の会員諸氏の驚異的なパワーでした。PTA・後援会・期成会が一丸となっての陳情活動。関係各局より、北陵さんもういいよ、よくわかりましたと、よく言わしめた程でした。
 私の任期は開校より3年間でまさに創世の時代で、レールもないが束縛される因習もない自由。無から有を生む喜びとその責任の重大さに緊張の3年間。けれども新校舎で喜びの中で任期を終了できたことを誇らしく思ったことはありませんでした。
 みんながこれほどの情熱をかけ期待して造り上げた北陵高等学校だもの。期待通り北の大地に最高峰に輝き羽ばたくであろうと確信し任期を終えました。
 最後になりましたが、当時不肖の私を支えて戴いた会員諸氏、各先生方に心より御礼を申し上げると共に、幾久しく健康に留意されこれからも生々発展するであろう北陵高等学校を見守って戴きたく御願い申し上げます。
 北陵高等学校の生徒諸君、これからも校名と校章の意のあるところを解し、大いに羽ばたいて最高峰に輝くことを開校二十周年にあたり心より祈念するものであります。
 今回は本当におめでとうございます。


開校二十年を顧みて
初代後援会長

 北陵高校が開校してから20年が経過し、今年10月には二十周年の記念式典が計画されていると聞き、月日の流れの早さにただ驚くばかりです。心から御祝いを申し上げます。
 本校が開校したのが昭和47年4月で、場所は南1条旧札幌女子高が遣っていた木造の校舎で老朽化の進んだ建物を仮校舎として発足しました。仮校舎のせいか教材・教具等が不足しているこの状態で勉強している生徒の姿を見るにつけ、なんとか他の高校並みに整備していただくため、道教育庁を度々訪問し整備方をお願いする。また、これと並行して新校舎の早期実現を願い学校当局はもちろん、父兄も一段となって道教育庁に陳情を繰り返すも、我々の力では不足であると判断し、北区の有志の方々にも協力していただくことになり、校長先生、事務長、PTA会長、私とで挨拶とご協力をお願いする。私達の気持ちが通じ後日促進期成会が発足し、より強力な運動を各方面に亘って行い成果を上げることが出来ました。
 学校用地が北区屯田と決まり、杭打ち工事も始まり、いよいよ躯体工事に入ったが、当時は狂乱物価といわれた年で粗末な建物となっては大変と思い、建設会社本社を訪問、また、お母さん達が自発的に現場慰問班を作り、後援会の副会長が中心になって現場慰問が行われ、工事が完成するまで続けられました。
 またPTA、後援会もこれらの運動の他に、内部の設備の充実及び校外の環境整備等にも力を入れる。特に通学道路の拡幅整備、通学バス路線の確保等、これまた大変大きな問題で苦労があり、関係機関のご協力により新校舎に移転するまでには解決する事ができ、関係者一同が喜んだしだいです。
 次に新校舎の落成と開校五周年の記念事業に関しても様々な催しが計画され実行に移されたが、特に生徒の体位向上にと格技場の建設、教育工学室に関してはアナライザー一式を寄贈、前庭の巨大な老木(水松)は後援会副会長が石狩当別の山を歩き発見した巨木であり、子供達が将来この木の如く巨大な人物になり、社会を歩むようにと願いを込めて植えたものです。
 本校の生徒達が21世紀に向かって大きな希望を持ち、邁進されるよう願って私の回想文といたします。


「北陵だより」編集の思い出
元北陵だより編集委員

 昭和49年、息子が3期生として入学したころは、新校舎移転を秋に控え、学校と建設期成会、後援会、父母が一体となって尽力しておられる様子を「北陵だより」を通して知らされておりました。この読む側から作る側に、しかも父母の手に任せられたばかりの時でしたので、編集委員として務まるかどうか、不安でいっぱいでした。
 割付、原稿依頼、取材、校正など、どれもが初めての仕事でした。それだけに、先生方のご指導をいただき、全委員の協力で刷り上った「第12号」を手にした時の喜びは、今でも忘れません。
 翌年、釧路で開催された「全道高P連大会」に、編集委員として初めて参加したこともいい思い出となっております。
 校舎内の施設、環境整備が着々と進むにしたがい、「第16号」では校舎落成記念特集を組み、式典、座談会、講演、植樹と、記念行事をお伝えする記事は4ページを埋めるのに十分でした。その取材も経験し、録音テープから活字にする難しさも知りました。
 中でもスポーツに、文化に、各分野で活躍し優秀な成績をあげた生徒を紹介する記事は、いつも嬉しくお知らせしたものです。
 授業中の廊下を歩きながら、1時間でもいい、生徒と一緒に勉強したいと思ったり、下校時の満員のバスに乗り合わせて、ちょっぴり高校生の気分を味わったりもしました。
 開校五周年を記念して、地域の人々の為に開かれた「公開講座」は、地域外の自分にとってうらやましい限りでした。
 校舎の玄関前に植えられたイチイの木は、今も赤い実をつけているでしょうか。
 「第17号」(昭和52年3月発行)を以て、私の役目は終わりましたが、時を経てすでに70号を越えていると伺っております。
 北陵高校の歴史は、「北陵だより」の歩みでもあると思います。
 母と子が共に学び、共に愛した北陵高校の一層のご発展をお祈りし、心から「創立二十周年」のお慶びを申し上げます。


源氏物語と共に ― 源氏を知る会
公開講座受講者

 昭和60年4月のある土曜日、庭前で久方振りの友に逢った。彼女は源氏を知る会の初回からの会員で、源氏物語がいかに素晴らしい本であるか、千年の昔のラブロマンスで、日本の歴史まで勉強することが出来世界が広がった、など本当に熱っぽく語り、私にも一度で良いから覗いてみないかとのお誘いに、もともとの本好きと、好奇心も手伝い善は急げでその日の午後には会員になっていた。しかし数日が過ぎ、少し冷静になって又数回の土曜日がまたたく間に過ぎ去って、気がついた時源氏物語全七巻は私の本箱の中に鎮座ましていた。いつもなら新しい本の頁を捲るのが大好きな私も、この本に限って本当に手も足も出ない位不安と、読めないのに全巻買ってしまった浅はかな己れに、腹立たしくも呆れていた。しかも、教室へ来る人々が才女の集団に思え、皆輝いて見えたものである。けれど学校へ通う本当の戦いはこれからでした。気持ち良く賛成してくれたはずの夫が、一番のやっかい者で、二枚の券をチラつかせ野球へ行こうだの、映画に行こうだの、それらがなぜか土曜日である。私と何処かへ遊びに行くなど、絶えて無かった人でした。お陰でその夏のプロ野球は、全部お付き合いさせられるハメになった。しかし待てよ。本は全巻目の前に並んでいるのはまぎれもない事実なのだし、しかも受講料なしで、学校は住んでいる団地の外れにある。こんなチャンスは二度と巡ってこないであろう。「168時間のうちたった2、3時間のことじゃないの、気持ち良く行かせて。」そう宣言してから早6年と数ヶ月が過ぎた。受講生の名簿には絶えず30数名、名を連ねているが、始めからの出席者は2、3名でしょう。毎年の様に新旧の入れ替わりがあり、夫の転勤で無念な気持ちを抱いて去った方、老いた親の看病で通えなくなった、と電話が来ると返事に困る。「一日でも早く来られます様に」と言えばそれは死を待つ言葉となってしまい、先の短い人を看なければならない方に「一日も早い全快を」と言えば口先だけの実のない答えに聞こえ、この手の連絡が一番辛い。それにも増してここ数年で多いのが、週休二日制になった御亭主を一人置いて、なかなか出席しづらくなったケースであろう。よしんば家族の理解があったとしても、主婦が好きな事を長く続けて行く事の難しさをつくづく知らされ、今こうして無事に通える幸せを日々感謝するばかりである。この講座を開き長く続けて下さっている北陵高校の諸先生方、古典の古の字も理解出来なかった私共に、諦めず教え続けて下さっている担当の先生、又いつも気持ち良く図書の本を貸して下さる先生、そしてこれまで数回に渡り講義においで下さった北大の教授、さぞや手応えのない生徒ばかりであったろうと申し訳なく思っています。これら多くの善意の中、6巻目に入る日も間近になって、源氏ばかりでなく色々な古典文学の世界へと誘って下さった方々に、心から感謝を込めて、ありがとうございました。


友よ
同窓会副会長

 グレてやりたいような気持ち、親や先生に反発したくなるような気持ち、高校に入ろうとする年頃の少年にとって、今も昔も変わらないようです。
 かく言う私もそんなグレたい一人でした。北陵高校に進学するのがいやで両親に反抗し、入学してからも不満が先に立って学校になじめませんでした。先生方の熱意がかえってうとましく、先生が熱心になればなるほど、私の方は嫌気がさしてしまうという悪循環が続きました。いま思うと、もっと前向きに学校生活を送っていたらと、後悔の念とともに思い出されます。
 不満の種は探すまでもなくいたるところに転がっていました。ノートの上に降りかかるハトのフン、旧式で梁の低い、バスケットもバレーもろくに出来ない体育館、目張りをした窓から吹き込む隙間風。市立の藻岩高校などは立派な施設だというような話を聞くにつけ、不満が増幅するばかりでした。
 そんな日々、乱れがちな私の生活のリズムをかろうじて支えてくれたのは、クラスの友人と創部して間もない野球部の活動でした。とはいえ、その活動なるものも思うにまかせないものであるのは勿論です。校舎の近くにはグラウンドなどなく、豊平川の河川敷で練習をしたものです。拾っても拾っても石ころだらけの狭く固いグラウンド、ノックをすれば球が顔や胸に飛び、バットを少し強振すればボールは河原のどこかに見えなくなるのです。
 2年生の時の修学旅行中のちょっとした事件も忘れられません。本校の女生徒がどこかの県の男子生徒に追いかけられたのです。私達もその生徒を追いかけ、彼の部屋の前で一触即発の険悪なムードになりました。しかし、その生徒が出てきて言うのです。
 「ごめんなさい、こんなことになるとは思わなかったんで―」
 「どうしてうちの女生徒を追いかけたりしたんだい」
 「話しかけたら何も言わずに逃げ出したので、思わず追いかけてしまったんだ」
 大笑いになりました。その後部屋で担任が点呼をとっているとき、その男がお詫びに来たのには重ねてびっくりしたものです。
 そんな出来事ももう遠い昔の思い出です。その頃の友に支えられて現在の私があります。みんな懐かしい思い出になりました。
 「オーイ、みんな、元気でやってるか」


私の高校生活を振り返って
1期生

 昭和47年4月に開校、その1期生として入学、早二十周年になるとは、その時の早さにはただ驚くばかりです。
 開校当初は一条校舎で、1期生4クラス180名でスタート。公立高始まって以来の男子ブレザー制服。道内各地から素晴らしい諸先生方がお見えになり、今思えば無我夢中で過ごした毎日だったように思います。
 今、高校生活を振り返ってみると、様々な思い出が脳裏を横切り、どれを語ろうともこの紙面では足りないくらいですが、その中でも幾つか印象深いものを挙げてみたいと思います。
 まずは、入学式直後の宿泊研修。まだ学校生活に馴染む間もなく国立大雪青年の家へ。1期生が団結する非常に有意義な研修であった様に思われます。今でも、大雪青年の家の歌は忘れていません。
 次に生徒会活動。1年目は設立準備委員会を設置。他校の生徒会組織等を調べ、どうすれば充実した活性化される生徒会が作り上げられるかを話し合ったものでした。1年間の準備期間を経て、2年次には生徒会設立。初代の生徒会が動き始め、自分も会長として活動に参加、様々な行事等に携わり毎日が充実した日々であったと思います。全てが初めてであり、その一つ一つを暗中模索しながらも、わずかな光を求めその光を大きくしていったような気がします。
 まだまだ思い出を書き綴れば、北陵祭での8ミリ上映、雪まつりの雪像作り、定山渓への強行遠足など、色々あります。
 この様に、高校生活を振り返ってみると、今の自分を形成している土台となっているような気がします。
 開校より20年たった今、1期生は社会・職場の中堅として活躍しています。また、同職場には後輩も続々と進出してきています。以前にも投稿の際書いたと思いますが、北陵生ならびに同窓生は、いつもフロンティア精神を忘れず学業に、社会に活躍することを祈念します。開校二十周年、心よりお喜び申し上げます。


北陵祭「屯田今この地から」
4期生

 私は北陵高校の第4回卒業生です。ちょうど北陵が現在の屯田に移転して、初めての新入生ということになります。私は高校生活のほとんどを生徒会活動に打ち込みましたが、そのきっかけとなったのが北陵祭だったのです。いわば私を変えたとも言える北陵祭について、振り返ってみようと思います。
 屯田に移転して初めての北陵祭は、「屯田いまこの地から」というテーマだったと思います。今から考えるとずいぶん田舎くさいテーマですが、事実その当時は本当に田舎でした。まわりに家などなく、吹きっさらしでバスさえ止まってしまう冬の吹雪などは、よく「屯田おろし」などと言っていたものです。この屯田の地から新しい北陵の歴史が始まるのだという気持ちで、激論の末にこのテーマが選ばれました。私はその時1年生で実行委員会の副委員長をしていました。
 そして私に与えられた仕事は北陵祭の装飾です。昨年までの例を参考にしようにも、新校舎での初めての北陵祭ですから、何もありません。また、1年生の身でありながら装飾の責任者として2年生、3年生もいる部会をまとめるのは大変な苦労でした。ですが北陵祭を成功させようという気持ちは何年生でも同じでしたから、1年生の私の意見にもよく耳を傾けてくれて、とても素晴らしい仕事をすることができました。みんなで苦労して考えて、何日も費やして作った装飾の数々を今でもはっきり覚えています。大きすぎて1階に下ろせなくなった、玄関屋根のテーマ看板。とてもよい出来で、北陵祭終了後も相談室に飾られていたステンドグラス。
 そして何と言っても一番苦労したのがホール前の廊下に立体装飾で「HOKURYOSAI」という文字を作ったことです。ちょっと見ただけではわからないのですが、それが文字となっていることに気付いた時、見る人の足を止めてしまうほどのものでした。
 北陵祭は今でも毎年行われていることでしょう。それがただのお祭りとしてではなく、「屯田いまこの地から」のテーマで始まった北陵高校の文化の祭典の精神を、今も受け継いでいることを願ってやみません。


回顧
7期生

 「北陵」・・・10年前、新たな希望を胸に卒業してから何度この名前を口にしたであろうか。
 大学では、学友との会話のきっかけとして出身校の話をし、その他でもアルバイト先や就職試験、職場等々・・・あらゆる所で「北陵」の二文字を口にし、その度に高校での様々な思い出が蘇り、ふと微笑んでいる自分に出会った。
 長い人生の中のほんの一コマでしかないはずの高校時代が、自分にとってこんなにも思い出深いものだと知ったのが、そうした卒業後の出来事の中でというのはとても残念(在学中にそれに気付いていたら、もっと有意義な学生生活が送れた・・・?)でならないが、しかし、それだけ大切な時間を同じ制服に身を包んだ仲間と共有することが出来たことは、私にとって最高の機会であったと確信している。
 とりわけ「仲間との出会い」は、何にもまして最高の財産であった。
 中学までは同じ地域の中でのつきあいしかないが、高校に入るとそれぞれ違う地域から人が集まってくるので、入学式でとても新鮮な気持ちになれたことを今でも鮮明に覚えている。
 「出会いは偶然と偶然の重なり」と言うが、これこそまさに偶然。たまたま北陵を受験し、入学し、同じクラスになった・・・この偶然が無ければ、同じ世代に同じ高校生活を、同じ空間で過ごすことも無かったのだから。
 3年を通して出会ったクラスメートとは授業は普段の生活だけにとどまらず、球技大会や学校祭で熱い時間を共に過ごし、終了後打ち上げと称してみんなで飲みに行った(時効?)ことで一体感を感じることが出来たし、結果的には幻に終わったけれど「甲子園」目指して白球を追った野球部の活動と、そこで出会った仲間には同じ目標に向かって全員が協力して進むことの素晴らしさを学んだ。
 そのひとつひとつが過去のことでありながら、今なお自分の生活や仕事に生かされているのは、北陵が私にとって決して忘れることのできない社会であったからに他ならない。
 ありがとう「北陵」、そしてハタチのバースデイおめでとう。


“北陵生”だった頃
11期生

 初めて学校へ行った時、とても遠い所だと思った。それが、1ヶ月とたたないうちに、とても近く感じるようになった。不思議なもので、見馴れてしまうと風毛はあっという間に通り過ぎてしまうものらしい。
 私が通い始めたばかりの頃は、校舎の周囲は何もなく、緑の草原が広がっていて、離れた所に家がポツリ、ポツリ。防風林を身近に感じたのは、この頃だった。
 初夏を迎える頃、むせかえりそうな草の匂いと、高くさえずる小鳥の声がとても好きで、毎朝の楽しみであったこと。
 雨あがりのグラウンドの水溜まりにカモメが遊びに来ることや、冬の名物“屯田ブリザード”も北陵ならではのものだろう。自然に恵まれた環境だったと、そう思う。
 卒業し月日を重ねてゆく中で、いつまでも憶えているのは、楽しかったことばかり。
 初めての臨海学校は、想像していたものよりもずっとおもしろく、また友人が増えたこともあって、大満足のものだった。
 学年が上がるにしたがって、ユニフォームにも力が入る体育大会。デザインを考えて、布地を買い出しに行き、不器用ながらもなんとか作りあげ、クラス全員がお揃いでポーズを作る。応援にも熱が入り、勝った、負けたと喜んだり、落ち込んだり。とにかく、皆が熱中していた。
 先生の目を盗んでは、夜中のおしゃべりに花を咲かせた見学旅行。見てまわった寺社仏閣よりも、タコ焼きやお団子の味の方をしっかり憶えていたりする。
 そして、皆で作った北陵祭。それぞれに趣向を凝らした行灯を作り、はっぴを調達し、行灯行列で町内をねり歩く。打上げ花火も楽しみの一つだった。
 部活を続けてきた中で、多くの機会と経験が与えられたことも、思い出の一つとして、心の中に深く刻まれている。
 たった3年間の高校生活の中で、私は数多くの宝物を手にすることができた。それらはこれからの私にとって、大きな支えとなってくれることと思う。


地域福祉時代の高等学校 ― 魅力ある学校とは ―
12期生

 突然ではあるが、自分の専門である福祉の話から始めることにする。
 今、福祉の世界では、地域福祉ということがさかんにいわれている。これはサービスを必要とする老人や障害者たちが、できるだけ自分の生活してきた地域で、必要なサービスを受け、ごく普通のくらしができるようにしようというものである。つまり、たとえ施設に入らなければならない場合でも、遠くに行かずに済むようにしている。
 私は、剣淵西原学園というハンディを持った人達の施設にいたことがある。ここは、施設の職員が全体として町おこしに積極的に取り組み、絵本の里を創ろうと一生懸命で、町の活性化に貢献している。そして、そこにいる障害を持った人達はどの人も生き生きとし、自然な形で町の中に溶け込みつつある。
 さて、今の高等学校に目を転じると、このような発想で教育活動が行われているだろうか。ここで「地域」というのを屯田地域と考えたとき、将来の生徒となる地元の中学生が本当に入りたいといえる学校であるのか、考えてみる必要がある。
 私は3年間、「北陵祭」なる一大イベントの企画、運営に携わってきた。その中でも特に、どのようにしたら地域の人に親しんでもらえるか苦心した。小さい頃から家の前で見た行灯行列の印象が鮮明だったからである。PR活動や行灯行列のやり方、本格的な喫茶部を設けるなど、小さな工夫を協力してやったことがよい思い出となっており、実施したもののいくつかは、今も受け継がれている。
 今、高等学校を巡る環境には厳しい現実がある。校門圧死事件や中退者の増加など、風当たりは強い。そうであるからこそ、魅力あふれる学校作りが求められていると思う。個性的な高校とは何か。今一度、先生、生徒一体となって考える時期にきているのではないか。その一つの鍵が、いかに地域に根ざした高校にしていくか、という点にあるだろう。
 いずれにしろ、学校はその中の人が作るもの。OBは応援するのみ。二十周年を記念して、さらなる発展を祈っている・・・。


私の高校時代 〜 アルバムを開いて 〜
14期生

 私が北陵高校を卒業してから4年近くになります。そして、来年の春は大学を卒業し、社会人としてのスタートをきる予定でいます。
 今年、北陵高校が開校二十周年を迎えるということを聞き、嬉しさとともに私の学生生活の中で貴重な時間だった高校時代のことがとても懐かしく感じられ、卒業記念のアルバムを久しぶりに開いてみました。
 最初に目にとまったのは校舎の写真と校歌でした。卒業後一度も歌ったことがなかったにもかかわらず、校歌をすらすらと歌うことができました。記憶に残っていたのですね。
 次に先生方の写真のページでは、担任の先生、授業を受けたことがある先生、それ以外にもお世話になった先生方とのことが思い出されました。
 次のページからは学校行事の写真です。合格発表、入学式、宿泊研修、雪中運動会、遠足、体育大会、北陵祭、マラソン大会とページをめくるたびに高校時代の思い出がよみがえってきました。
 宿泊研修の時はあまり天候が良くなかったり、虫が多かったりしたけれども、ご飯を作ったり、夜遅くまで友達と話しをしたりして楽しかったなと思っています。見学旅行の時は青函連絡船や寝台列車、新幹線を乗り継いで到着した奈良や京都での見学や自由時間、それに旅行中にみんなの話し方が関西弁のようになってしまっていたことも良い思い出として残っています。
 そのほかにも、体育大会ではみんなでおそろいのユニホームを作ったことや朝早くにみんなで練習したら優勝できたことを、マラソン大会では3年間完走できたことを、北陵祭では行灯行列や3年生の時はクラスでお化け屋敷をしたことを、アルバムを見ているうちに思い出しました。
 私の北陵高校での3年間は、のびのびとした校風、信頼し合える友人、そして温かく見守って下さった先生方と、すべてにおいて恵まれていたのだなとつくづく感じました。
 これからも北陵高校の培ってきた伝統を失わず、益々発展していかれることを心から期待しております。


北陵祭のおもいで
15期生

 北陵高校で3年間を過ごしたわけですが、その3年間で色々な行事を経験しました。見学旅行、体育大会、北陵祭など数えあげれば1ページくらい埋まってしまいそうです。
 その中でも印象に残っているのは北陵祭です。特に3年生の時の行灯が思い出深いです。
 「ねぷた」の行灯を作りました。連日、暗くなるまで絵を描いたり、色を塗ったり、とても丁寧に作りました。
 しかし、前夜祭も後夜祭も雨で、とうとう行灯をしたり灯を入れたりできなくなってしまいました。
 行灯を壊す日に「せめて灯だけでも点したい」ということで、自分たちは行灯を壊さずに、学校の近くに住んでいる子の家の車庫にこっそりと運び、夜集まって灯を入れようということになりました。
 二度あることは三度あるといいますが、その日も夕方から雷が鳴り始め、雨が来そうな気配になり、暗くなって行灯の待つ家に向かおうとした頃に、どしゃ降りの大雨になってしまいました。それに、もの凄い雷です。
 結局、その家に辿り着けたのはほんの数人で、私も含めてほとんどが灯のついた「ねぷた」を見ることが出来ませんでした。
 しかし、ともかく灯はともされ、それだけでも満足だと思いました。
 その夜のワクワクした気持ちや、びしょ濡れになり稲光に悲鳴をあげていたときの妙なおかしさは、今でも忘れられません。
 北陵での数々の思い出はまだ鮮明で、卒業してから3年近くたとうとしているなんて信じられません。
 卒業生の一人として、二十周年を大変嬉しく思っています。
 北陵高校のより一層のご発展を期待しています。


DEAR MY ‘FIRST’STEP
16期生

 開校二十周年誠におめでとうございます。私が在学していた頃からすでに薄汚かった校舎はどうなっていることでしょうか。
 考えてみるとこの二十周年という時と私の学友のほとんどが今年20歳の誕生日をむかえることとの間に、長い歳月の流れを感じずにはいられない方もおられることでしょう。
 北陵高在学中の事について、何でもいいから書いてくれ、とこの原稿用紙を目の前にしているのですが、残念な事に高校時代の事なんか殆ど覚えていませんでした。私は別に残念だとは思っていないのですが、いきなりこういう原稿書いてくれって時に大変辛い状況におかれてしまいました。
 何しろ高校時代の私は、何かを積極的にやろうと思った事がなかったんです。高校生活って言うと青春、とか汗とか涙とか。経験している人達にとってはどんな形であれ、後になってそう思うこともあるのでしょうけど、私はそういう世界が何となく嫌いだったのでなるべく遠ざけるようにしていました。いつも何か面白い事ないかな、って探してるわりには何もなく、あるのは機械的な時間割と虚しく響く風の音だけでした。勉強に熱中できる訳でもなく、文化的・芸術的活動に触れる訳でもなく、SPORTSなんておっくうで。
 高校時代は無口でした。人と話すのは好きなんだけどそれすら面倒になってきて、いつの間にか集団の中にいても何も話さなくなってきて、言葉が退化してきました。
 それでも、このままじゃいけないと思って自分をinspireさせようと思いましたが、見事に失敗しました。その一つが生徒会活動です。私は生徒会というものが、時代に合わせて自由に対応していくことが出来ると思っていましたが、その概念自体が音をたてて崩れていきました。生徒会も学校機構の中の一部なのです。果たして私の思いはとげられるはずもなく、諸々の雑用に時間をとられることになる訳ですね。こうして私は自らを無気力化への道にひきずり落としたのです。
 別に学校のせいじゃないのです。たまたまこういう時期が、あの高校生活の中で起きただけなのです。と補足しなくちゃ。


二月x日
17期生

 朝9時過ぎに学校に着くバスに乗る。車内では、のんきな1、2年生が他愛ないおしゃべりをしている。その傍らで、私はさっき覚えた英単語を思い出してみたりする。吹雪の中を駆け抜けるバスの車窓からは、ほとんど何も見えない。そんな時、私は入学したばかりの頃の自分を思い出す。このバスは本当に北陵高校の前を通るのだろうか、と不安な面持ちで座っていた自分を。
 学校に着き、玄関を掃除している用務員さんとあいさつを交わす。
 「どこ受けるの?」
 「秘密!」
 3年3組の教室へ行くと、文IIを受けるN君とSさんが、もう数学の問題にとりかかっている。少し焦るような気持ちで、私もノートを開く。北大向けの問題ばかりなので、怠け者の私でもやる気が出る。実際、私はこの教室で今までにない集中力を発揮し、信じられないほど密度の濃い勉強をした。先生は、お昼をだいぶ過ぎても私達に付き合って下さった。
 午後からは赤本をやることにしていた。今日は小論文だ。いつも通りの手順で、外国人単純労働者の受け入れに賛成の立場と反対の立場双方の論拠をまとめ、自分は賛成の立場をとることに決める。ところが、何故かうまく文章にすることができない。小学生のような同情論になってしまうのだ。
 ―ああ、もうだめだ。こんなことをしているより、来年のセンター試験の勉強でもした方がいいかもしれない。
 気分転換に温かい紅茶でも買いに行こうと階段を降りていると、上の方から校長先生の声がする。
 「今日の君は小さく見えるな。人は自信がないとき、小さく見えるものだよ。」
 あと少し、頑張れ、とおっしゃる校長先生に笑顔で応えると少し元気が出た。そこへH先生がやてきて、普通教室は寒いだろうと、準備室を貸して下さる。電気ストーブの前で、今度は英語の挑戦。何だ、こんなものか。窓の外にはどんよりとした紫色の雲。でも、私の心はいつになく軽やかなのだった。