第2編・各論〜第3章 分掌活動

総務分野
総務部
 昭和50年度から設けられた。学級数が28になり、教職員も68名となって、各文章の仕事量も増し、同時に競合する部分も出てきた。その間の連絡調整を絶えずとっていく必要に応じて生まれたものである。あわせてPTA、後援会などの諸団体との接点の役割も果たしている。

中高懇談会
 本校発足当初から実施されており、入学した生徒の調査書に現れない能力や生活実態について、中学校から資料を提供してもらうと同時に、本校の教育の実情を理解してもらう場として設けられたものである。従来の高校が、中学校との関連をほとんど無視してきたところに生徒指導上の問題があったのではないかと考えられたからである。

姉妹校
 札幌の姉妹都市ポートランドのリンカーン高校と姉妹校の関係を結ぶことによって、生徒の国際的視野を少しでも広げることができるならばということで始めたものである。現在のところは、学校に関する資料の交換の域を出ていないが、将来は人的交流も目指している。

通学バス
 900人の生徒が利用している。行事などがあって下校時刻が変更になる場合は、7台の臨時便のダイヤ変更を中央バスに依頼しなければならない。したがって当日の時限変更は不可能である。担当者は、毎月中央バスとの打合せをするだけでなく、行事などの前日にも必ず確認をしている。学区の縮小を希望するゆえんである。

校外研修
 従来学年が主体となって実施してきた宿泊研修(1年)、臨海学校(1年)、林間学校(2年)、見学旅行(2年)は学校行事であり、関連学年との連絡をとりながら実施することになった。

教務分野
教育課程1(全般)
 昭和47年度は教科科目33単位で出発したが、昭和48年度クラブ活動発足と同時に全学年教科科目を32単位とした。もちろん新教育課程の理念を生かしていく意味もあったが、新設2年目の本校としては、1回生と2回生とが体験を共有することによって、共通の意識で創業に参加してもらいたいという現実的な意味もあった。昭和50年度からは教科科目の単位数を31とした。このきっかけとなったのは、従来から実施していたクラブ活動の2時間連続の形態を、交通不便の新校舎においても継続していきたいということであった。それに学級担任による面接相談、個人指導、生徒会活動、部活動などの時間の確保の要求が重なりあって実現したのである。したがってクラブ活動を実施しない週は午前授業の日が2日ということになって前述の要求は満たされることになったのであるが、それにしたがって「午前だけで帰れる日が2日になった」という生徒の意識の変化が別の問題を起こしているようである。それは、昭和51年度からのクラブ実施日に3年生が午前授業になるという状況によってさらに拍車をかけられているように見える。前述の要求をよりよく充足するような条件整備について考える必要があろう。

教育課程2(教科)
 1回生のみが旧課程で、2回生からは新課程になった。1回生については国語、社会、数学、理科、外国語(英語)の5教科の履修単位が偏らないようにするとともに、数学、英語について増加単位を配当することによって受験にも耐えうるように配慮した。2回生については、1回生と同様の配慮をしながらも新課程の精神を生かし、選択制と類型とを取り込み、生徒の多様性に応えようとした。3回生については選択制を一部整理することによって自然学級を維持する上での困難点を除き、時間割の硬直化をいくらかでも解消する道を取ることにした。このことは社会・理科の全科目を履修するのが望ましいという教科の考え方の方向へ一歩進めたことでもあった。4回生に至って、選択制と類型は第3学年のみとなり、5教科の履修単位の差は小さくなって、旧課程と大差ない形になった。5回生も4回生と同形である。現行の定員、科目担当者の構成、教室数などを考えれば、自然学級の維持と選択制の増加は二律背反の関係にあり、固定部分が多くなるのはやむを得ない現象であろう。ただ、新課程の根本精神がこれでは十分生きているとは言えないところに問題が残る。

教育課程3(ゼミ)
 昭和50年度から実施している。生涯教育の根幹をなす「自学自習」の習慣の形成、教科書を越えた自由な学習の体験、専門知識や深い経験を媒介とした生徒と先生との人間的な交流などを目標として考えられた。当初構想では生徒が月1回か2回担当の先生のところに相談に来ればあとは自由として、卒業までに論文を一つ書き上げるだけでよいというようなものであった。しかし単位として認定するためには、授業時数や出席時数の確定が必要であることや、生徒指導上の問題などから現今のように時間割に組み込み、先生が教室で指導するという教科授業と同様の形態となったのである。昭和50年度は特別英語、音楽、美術、書道、食物、被服とゼミ(講座)との中から一つを選択する形で、特別英語には人数制限を設けなかったが、残りはそれぞれ1学級(ゼミは30人)とした。昭和51年度も、特別英語が廃止となったほかは前年度とほぼ同形態となっている。当初構想では極力教師負担を避ける方向であったが、現実には検定教科書以外の教科書を使った授業という形になっているために、準備にかなり時間をとられるという問題が起きている。

教育課程4(クラブ)
 昭和48年度から旧課程の2年生を含めて実施している。発足当時、仮校舎であったため、体育施設が著しく不足していて、既設校並みのクラブ活動を展開することは不可能であった。一方、放課後の部活動の参加状況は80%を越えていた。そこで、クラブ活動と放課後の部活動を相互補完的に考え、クラブ活動では部活動にない分野を取り上げることにした。それに、広い場所を必要としないこと、3年間継続することによって技術的に向上すること、指導可能であること、経費(学校負担も個人負担も)が少ないこと、日本古来の伝統を継承しているものが望ましいこと、などの観点を加えて囲碁、将棋、空手、陶芸、木彫、染色の6クラブで出発した。昭和50年度、新校舎での実施を機に生徒の希望を取り入れる方向でラグビー、バドミントン、卓球などの運動系のクラブを新設した。あわせて文化系、生産系のバランスを取るため茶道、器楽なども加えた。これは、多人数を収容する囲碁や将棋に第2・第3志望が多数入ってきて、活動を阻害しがちであるという前年度(昭和49年度)の反省に立ったものである。昭和51年度は、さらにこの方向を進めてソフトボール、軟式テニス、落語研究、百人一首、園芸などを加えて19クラブとした。なお、全学年1,350余名を同時に展開するのは、施設設備上の上で既述の問題が再燃するだろうとの予想から、3年についてはゼミ(2単位中の1単位相当部分)をもって代替し、クラブ活動は1・2年だけで展開することにした。

研修
 全校研修は年4回実施している。教科と分掌がそれぞれ2回となっている。教科では、社会の主題学習や国語の課題学習、視聴覚機器利用の授業などについて研修会が持たれた。報告内容はそれぞれ豊かなのであるが、他の教科あるいは分掌にすっと取り入れていくには難しい点があって、全員の積極的な参加を得られない点に問題がある。

学習指導分野
実力テスト
 範囲を特定せず、それまでに学習した内容について出題し、それによって一夜漬けでない学力を測ることをねらった。あわせて模擬試験的な性格を与え、それと学習成績との二本で大学進学の際の指導資料にも使いたいというのが最初の考えであった。しかし現実の出題に際しては、学習の到達度を測るというねらいと模擬試験的なねらいとを両極として、毎回水準に揺れが見られ、なかなか当初の目的が達成できないでいた。その点の反省から、昭和51年度は到達度の測定と学習指導上の問題点の摘出とをねらいとする方向に大きく方針を変えて再出発することにした。

学習評価
 評価は、評定平均が6.0(10段階)になることが望ましいという条件があるだけなので、生徒集団が平均付近に密集しているという本校の特質ともあいまって、総合成績の上位者(たとえば調査書のAランク)が非常に少ないという結果になっている。推薦入学制度が拡充されつつある現在、考えなければならない問題である。

視聴覚施設
 設備、学習の個別化、プログラム化、映像利用の範囲の拡大に対応して、ひとりひとりの生徒に着実に学習を成立させるために、視聴覚室、社会科教室、第一講義室に置かれたテレビを中心に多角的な映像利用授業が展開されている。各教室の利用率は80%を越えており、教育現代化の要請に応えているといえる。これに教育工学室が加わり、将来は普通教室でのテレビ授業も構想のうちに入っている。ただ、理念としては全教科で利用できることはわかっていても、現実には時間の半分以上利用できる教科と、せいぜい利用しても5分程度といった教科に分かれてしまい、機器を利用する教科が偏ってしまうところに一つの問題がある。

「わかる授業、わからせる授業」
 50年度から全校的な研修のテーマとして取り上げ、実践研究が続けられている。その第一は視聴覚機器、特にTVの活用である。社会、理科を中心に映像を有効に活用して臨場感を盛り上げ、実感的理解をねらっている。そのほか予習を強制する課題学習、落ちこぼれを防ぐ補習あるいは個別指導、定期的なノート指導、プリントによる反復練習など、教科の特性に応じてそれぞれ工夫がなされている。

進路指導分野
基本的な考え方
 3年間を見通した全体的、系統的な計画のもとに、正しい職業観の育成をはかるとともに、進路に関する情報資料を十分に提供し、生徒自らが進路を選択する能力を身につけさせるようにすることを眼目として、具体的な活動が展開されている。

指導の状況
 担任と生徒との徹底した個別相談を軸として、それを補完する形でLHR、学年集会、講演会、説明会など生徒を対象とした会合や、父母を対象とした進路懇談会や個別懇談を有機的に組み合わせている。さらに、生徒の自発的な相談や研究に応える体制として、進路相談室の整備を進めている。就職情報や大学情報をファイルして生徒の自由な利用に供するとともに、選任の相談員が常駐していて、生徒の相談に応じられるようにしている。卒業生も少なく、学校独自の資料もようやく整備に向かった段階の本校にとって、外部資料の系統的な提供と相談は欠くことのできないものである。

職場開拓
 知名度の低い新設校にとって、卒業生を喜んで迎え入れてくれる職場を開拓することは大変な仕事である。49年度は7名であったので職安を通じての求人で大体のところはまかなえたが、50年度になると一挙に37名に就職希望者がはね上がったので、その希望を実現するために担当者の職場めぐりが始まったのである。試験期間や放課後を利用して、学校の特徴や生徒の長所を積極的に売り込むための行脚が続けられて、後述のような成果をあげることができたのである。

進路状況の概略
 昭和50年3月には東京警視庁、札幌市役所、全日空などに7人が就職し、北大、道教大などの国立大学に15人、明大、北海学園大などの私立大学に51人、藤女子短大、武蔵女子短大などの短期大学に38人、各種学校に18人が合格している。昭和51年3月には日本銀行、電電公社、ホクレン、道庁などに37人が就職し、北大、道教大、電通大、防衛大などの国立大学に38人、早大、慶大、北海学園大などの私立大学に133人、藤女子短大、北星女子短大などの短期大学に130人、各種学校に34人が合格している。

生徒指導分野
生活の基準
 生徒が校内外の生活において守らなければならない規則を示した「生徒心得」にかえて、北陵高校の生徒としての望ましい行動様式を示す「めやす」としてこれを考えることにした。生徒の指導にあたっても、じっくじ時間をかけて納得するように仕向け、生徒自身の内的自発的変容を期待したのである。だが、現実の運用に当たっては、内容の点で規則にあたるものと「めやす」にあたるものとが混在していたこともあって、基準は最低限度を示すという考え方と幅を認めるという考え方との衝突や、時間をかけることが逆に“良貨を悪貨が駆逐する”的な現象を呼ぶことに対するいらだちなど、かなりの混乱があった。その根底には「指導とは現状の改善があってはじめて成立するものだ」とする考えと、「徒労に終わるかもしれないが絶えず現状の改善を呼びかけていくことが指導である」とする考え方の対立があって、簡単には解決のできない問題なのかもしれない。

相談活動
 相談の基点は当然のことながら学級担任である。しかし、学級担任は45人すべての相談に当たらなければならないので、特殊な問題を抱えた生徒や長時間の相談を必要とする生徒の相談に当てられる時間にはおのずと限度がある。また、問題によってはその方面に造詣の深い人に当たってもらった方がはるかに効率的でもある。さらに、教科担任あるいは部活動担任との相談を必要とする場合もあろう。この種の教育活動は、従来どの学校でも行われていたものであるが、これを組織的に進めていこうというのが本校の相談室設置のねらいである。相談技術などに関する情報を提供したり、自由相談に応じたり、問題の性質に応じて相談相手を推薦したり、さらに保健室の健康相談活動と連携をとりながら、心身両面にわたって、多様な生徒の多様な問題に対処しているのである。

生徒会指導分野
生徒会設立準備委員会
 昭和47年4月の宿泊研修を出発点として「生徒会は必要か」から討論を始め、全員が「生徒会は必要である」という認識を持つまでホームルーム、全校集会を深めた。6月から7月にかけて希望者を中心に各クラス4名程度の準備委員を選出し、作業を開始した。生徒会の組織・規約の作成、準備資金の検討、新役員誕生のための選挙管理委員会の仕事の3つに力点をおいて仕事を進めた。8月、9月は他校へのアンケート、生徒手帳の収集。10月、11月の2ヶ月でアンケートの集約・分析、生徒手帳の分析、今までの生徒会の問題点についての整理。翌48年1月に組織の原案の作成、2月には規約の骨子を作成、と仕事が進んで3月23日の立会演説会、投票を経て初代執行部が誕生したのである。

規約の特色
 一番大きな特色は、各種委員会の委員長と本部役員とで総務委員会が構成され、その中には広報委員長も含まれている点である。総務委員会で、諸々の行事や活動についての共通理解が得られ、それが広報委員会の広報、放送、新聞の諸係の活動を通じて周知徹底が図られるのである。その点では、従来の放送部・新聞部といった報道機関とも趣を異にしている。また、監査委員会に強力な権限を与えているところも大きな特色であろう。備品監査だけでなく、会議録の点検、会計監査などを通じて執行上の是正を求めることができる。この委員会が的確に活動することが、生徒会の公正な運営を保証することになる。特色の第三は、総会が承認機関になっている点である。審議過程に誤りはなかったか、十分審議は尽くされたかなどの点について質疑をするだけである。不承認となった場合は、もう一度代議委員会で審議をやり直すことになる。いわば一種の拒否権が総会に与えられていることになる。結果は承認か不承認かのどちらかであって、修正可決といった機能権限は総会には与えられていない。決定はあくまでも代議委員会でなされるのである。第四の特色は、推薦委員会の存在である。当初構想では、立候補者が定員いっぱいの場合は信任投票になってしまって、選挙の機能が十分発揮されないから、対立候補を立てて活気のある実質的な選挙を行おうというところにねらいがあった。しかし一方では、せっかく自分の意志で立候補した者にわざわざ対立候補をぶつけて、立候補した者の意欲に水をかけることになりはしないかという議論もあって、現在では候補者難をなんとか解消するだけの機関になっている点に一つの問題がある。

健康指導分野
健康相談
 初年度は健康指導担当の教員によって、翌48年度からは養護教諭とのコンビで相談活動が進められている。頭痛や腹痛の手当、保健室での静養などの機会に、その痛みや苦しみがやわらいでくると、その苦痛の原因になっている生活上の諸々のことが相談となって表面に出てくることがよくある。そこから、問題が単なる肉体上のことではなくて、 学習や進路についての悩みに真の原因があることが分かったりする。そこに、本校で行っている相談室あるいは進路相談室との連携の意味がある。

清掃
 開校当初は、校舎使用面積に比して生徒数が少なかったこともあるが、校舎内の教育環境をいかにして清潔に保つかという観点から考え出されたのが、毎日全員掃除制と大まかな地域割制とであった。これは実に効果的であった。遊んでいる者がいないため、掃除の邪魔になる者がいないのである。北陵高校は実にきれいだという評判をとったゆえんである。翌48年、1年生と2年生とを組み合わせて2年生が1年生を指導するという形態をとった。これは49年にも引き継がれたが、3年生はHRだけ、2年生も指導にまわるのは少数で済むといった事情から、掃除に当たらない者の数が増え、それが掃除の妨げになったことや、指導するということが性格的にうまくできない者が多くいたことなどもあって、うまくいくグループとばらばらになってしまうグループとの差が目立ってきた。さらに、1年生だけが全員毎日掃除といった外見上の不公平の微妙な心理的影響を気にする意見もあって、49年12月新校舎移転を機に平等分担制の現行方式に移行した。分担区域が細切れになったこと、クラス内でも日替わり当番制になったことなど、校内を清潔に保つ上で一つの問題が出てきていると言えよう。

交通安全
 交通量の多い一条橋の仮校舎、自転車通学が400人になろうとする現校舎と状況は変わっても、交通安全は重要なテーマであることに変わりはない。ルールの知識はあるが、小学生のようにそれを厳密に守らなくても危険をかわしてくることができたという体験が、無意識のうちに安易な通学姿勢をつくり出している。現場での直接指導もされてそれなりの成果はあげているものの、それが一過性で感覚の中までなかなか入り込まないところにこの問題の難しさがある。

学年分野
1回生
 1年ではクラブ活動・生徒会活動・学校行事などへの積極的な参加を通じて、楽しい学校生活をねらった。2年では学習を大きな柱として勉強の厳しさを実感させようとした。3年になったら進路実現のために全力を尽くさせることを考えた。これが大まかな方針であった。大部分の生徒はこの基本線に共感を持ちながら学校生活を送っていたが、一方では先輩の無言の教えのようなものがないため、たえず先生に強力に指導されてきたという意識が主流となっていたようである。それが、頭髪指導やネームプレート指導に対する反発という形で吹き出してきたといえよう。それに環境の変化―生徒と先生が互いに顔と名前を知り合っている状況から2倍の下級生の中に埋没してしまう状況へという変化に対する不満、自分を自分で上手にコントロールできない苛立ちなどが加わって、紛争前夜の状態にまでなった。その意味で、1年から2年にかけての底抜けに楽しい生活、2年から3年への精神的緊張、3年から卒業までの精一杯の受験勉強、さらに生徒会創設などの活動を考えれば、多彩で張りのある充実した3年間であったと総括できよう。

2回生
 2回生の北陵の生活は、入学式の一週間後の「宿泊研修」から始まった。見ず知らずの者達が、急に2泊3日の研修に出かけたのだから、緊張と不安は大変であった。だがここで団体生活の規律の厳しさを学び、同時に寝食を共にして語り合った効果は、その後の学校生活の随所にあらわれた。今振り返ると、この宿泊研修は2回生の前途を象徴していたように思う。1回生もそうであったろうが、2回生の生活には、常に模索し創造していく者の緊張と不安と苦労とそして喜びがつきまとった。何かにつけていわれた「伝統づくり」という言葉や、つい先行しがちな先生方の指導に対して、時に反発し抵抗することもあった。しかし、1回生と共に発足させた生徒会や部活動、或いは北陵祭や雪中運動会などの行事の企画運営、2回生が始めた地理の「さっぽろ」や見学旅行の自主研修、厳しい状況の中での就職や進学等、あらゆる場面で試行錯誤をくり返しながら成果をあげ、後輩達の指標となるものを残してくれた。この意味で、2回生は北陵高校の歴史にくっきりと軌跡を描いたといえよう。