北陵だより第14号/昭和51年3月10日発行


[北陵だより第14号 1ページ]



【対話】高校とは何か
本間校長・佐藤生徒会長


何を期待したか
生徒会長 僕は、高校が青春の中核であると自分なりに定義していたので、より自由により広範囲に行動できると考えていました。北陵は新設校だし、自分は2期生なので在来の高校よりも多くの点で学校そのものに若さがあると思いました。しかし、逆に灰色の季節というイメージもあって、入学しても友達ができないのではないかと思ったりもしました。

どう応えたか
校長 人生の中で最も吸収力に富み、柔軟な時期で、この時期の生き方がその人間の生涯を左右するものである。そのためには、学校は牢獄であってはならない。
 人間にくずはないし、完全無欠なものもない。必ず長所があり短所がある。こんな学校観、人間観に立って、かけがえのない人間としての自覚、調和のとれた人間性の育成、強靭な体力・充実した気力・旺盛な意欲の涵養、の3つの教育目標をきめた。そのためには、教師・生徒間に先ず明るく和やかな雰囲気が必要であり、極く基本的な社会的行動様式はきびしく躾けるが、そのほかは生徒の自主的判断に任せることにし、細かい規定は作らないことにした。

何を得たか
生徒会長 入学前の予想とは違って多くの友達ができたし、北陵の校風なのか、どこか呑気なところがあって、変にコセコセしないですんだのは幸運でした。また、生徒会や柔道、弁論などの部活動の中でささやかな苦労が認められたこともあり、イヤなこと、困ったこともあったけれど、総計するとしあわせな3年間だったと思います。

何を与えたか
校長 学校は無駄に遊ぶ所ではなく勉強する所である。しかし、全部にオール5を求めるのではない。学習に秀れた者、学習はまあまあだがスポーツや芸術・文学に秀れた者、種々あってよいし、そうした中で生涯の刎頸の交わりをする友人も作らなければならない。その意味では、それぞれの分野で大いに成果をあげた。しかし、不十分な環境施設の中で、不満も随分あったと思う。が、その不満も一面から言えば成長のあかしにほかならない。

どう生きて欲しいか
校長 保護され、引っ張られる時代は終わった。これからは、上級学校にしろ職場にしろ、文字通り「憤せずんば啓せず」ということばを銘記してほしい。みずから生きがいを感じ、充実した生涯を送るために「なくてはならない人間」であり、同時に「太陽の如き人間」であるよう精進してほしい。

どう生きるか
生徒会長 スケールの大きなこと、そしてそれが人のためになる仕事をやりたいと思います。現在の社会は、政治不信とか経済の悪化などが問題になっていますが、根本は人間がやっていることなのですから、一人でも二人でも「人のことを考えられる人間」が誕生する手助けをするために、百年先を考える教師になりたいのです。

ゆりの木
 「消費は美徳なり」とか、「使い捨ての時代」とか言われた高度経済成長時代も、石油ショック以来一転して、節約の時代となったようですが、物の豊かな時代に育った若い人達は直ちにこれに順応できるのでしょうか。
 戦時中から戦後にかけて極度に物の乏しかった時代を経験した私たちでさえ、何をどのように節約できるのかという見通しはつくものの、一度広がった生活様式を切りつめることは、なかなか容易ではありません。
 ましてそのような耐久生活を経験したことのない若い人達に、物に対する欲求をおさえることを、どのようにして身につけさせたらよいのでしょうか。
 幸福は物のみで得られるものではないということは、よく言われていますが、このことを説くのに次のような話し方をされたのを何かの本で読んだことがあります。大変興味深く記憶に残っていますので引用させていただきます。
 「幸は心の幸せ、福は金銭、物によっての幸せ、そして幸福とは、この両者の和でなく積である。5プラス5は10であり6プラス4も10であるが、積となると25と24で5と5の時が最大効果がある。そのために両者はバランスがとれていなければならない。」
 今までは福の数字の方が大きい世の中であったようですが、これからは幸の数字を大きくしていかなければならない時代が来たのではないでしょうか。


[北陵だより第14号 2・3ページ]

卒業を前に
第2回生の諸君へ
教頭

 卒業おめでとう。
 新たな人生への旅立ちに当って、ひとことはなむけの言葉を贈りたい。21世紀まで、あと僅か25年、そのころ諸君は社会の中核としてそれぞれの分野で逞しく活躍しておられるであろう。また、そうあることを祈りつつ。
健康
 快適な人生の基盤は健康である。もちろん生身の体である以上、病に冒されることもあろうが、つねに「健康であろう」という姿勢で、規則正しい生活を持続しよう。
青春
 生涯、青春の気概で進もう。いくつになっても、前途に希望を持ち続け、若々しく前進していきたい。希望とは青春の別名であり、希望をなくしたとき、人は老残の姿を現ずるものである。
知性
 勉強は学校にいる間だけするものではない。良書に親しみ、多くの人と交わる中で英知を磨き、良識ある社会人に育っていこう。
情熱
 人間的な感情の躍動のない、しらけの人生は生ける屍である。ひとを惹きつける魅力も、理くつではなく、ひたむきな情熱から生まれることが多い。
信念
 信念なき人生は、羅針盤を持たず、大海をさまよう船に等しい。「自分はこう生きるのだ」という生きざまを、一日も早く確立しよう。

空教室に想う
3学年主任

 生徒の姿のない教室。掲示板にはってある印刷物を取り去り、教卓の中の受検資料を片づける。棚の上のものも、皆それぞれに持ち帰ってしまい、今は何もない。
 「終ったな……。」
 ふと、3年前の宿泊研修を想いだす。入学式を終えて僅か1週間後、見ず知らずの者たちが、急に2泊3日の研修へ出かけるのだから、緊張と不安は大変なものだった。
 行きのバスの静かだったこと。それに引率する私達も、殆んどが新任だったから、心理的圧迫は相当のものだった。
 しかし結果は大成功。寝食を共にして語り合うことの良さは、その後の学校生活の随所にあらわれた。そして私達教員にも、どんな厳しい状況の中でも為せば成るという確信と、このメンバーならという連帯感が生まれたのはありがたかった。
 今ふり返ると、この宿泊研修はその後の2期生の前途を象徴していた。1期生もそうであったろうが、2期生にはすべてが創造であり、暗中模索する者の不安と苦労がつきまとった。
 しかし、例えば北陵祭にしても、地理の「さっぽろ」や見学旅行の自主研修にしても、終ってみると期待以上の成果があがっている。この意味で、2期生は試行錯誤しながら、北陵高校の歴史にしっかりと軌跡を描いたといえる。
 これからどんな道を歩むにしろ不安と苦労はつきまとうであろうが、誇りと自信をもって進んで行って欲しいと念じている。

巣立つ娘に贈る
PTA会員

 2月の声を聞くと、漸くもう春がそこまできているのだという何かしらほっと心の和むおもいがします。いよいよ卒業ですね。月日のたつのは早いものであなたが高校に入学したのはつい昨日の事のように想い出されます。
 真新しい高校の制服を試着し、後ろ姿はどうかしら、スカート丈はこれでいいかしらなどと、飽きずに眺めていたあなた、お母さん達も心から喜びをかみしめたものです。
 当時お父さんは単身札幌勤務でしたが、高校入試の迫ったあなたに、かぜをうつすといけないと言って家に帰らず、一人札幌で頑張ってくれましたね。娘を気遣うせめてもの親心に、鼻の奥がつんとしたのを覚えています。
 北陵高校に転校する時、あなたは2度も入試を受けると言ってぼやいていましたが、今日まで良く頑張りました。そのお蔭で前校にも増して良い先生に恵まれ、また大勢の友人を得た事は、すばらしく幸せな事です。友達を大切にして下さいね。大学入試も迫り、緊張感の連続で大変だと思いますが、今この瞬間をやり通したら二度ともどってきません。若いうちです。時間を大切につかい、持っている力を充分に発揮して目的に進んで下さい。決して特別偉い人になれと言うのではなく、むしろ平凡でも良い、心の優しい思いやりのある娘に育ってほしいと願っているのです。只、私程の年令になって、あれもこれも勉強しておけば良かったなどと、あとに悔いを残さなくてもすむように希望をもって大きくはばたいて下さい。
 最後に校長先生はじめ諸先生方には一方ならぬご指導をいただき心から感謝いたします。ありがとうございました。

卒業にあたって3年生男子
 まだまだ遠い世界のことのように思っていた卒業がやってきてしまった。あれからもう3年も過ぎてしまったのであろうか。懐かしい一条橋の仮校舎、希望と不安が交錯し、やや緊張ぎみで臨んだ入学式からである。いろいろなことをしたいと思っていた高校生活。ふりかえってみると何もしていなかったような気もする。
 1年の時は遊び呆けていた。家でもぜんぜん勉強などしていなかった。だから楽しい毎日だった。2年になって、少しはやらねばと思ったのだが、どうもずるずるとさぼってしまう。だが2年も3学期になるとなんとなく気力が充実してきて、友達ともいっしょに数学の難問!?などに挑戦したりしていた。心にもゆとりがあったと思う。そして3年、受験受験と自分に言い聞かせてようやく勉強してきた。気がついてみるともう卒業ではないか。ついにここまできてしまったか、それが実感である。
 卒業……はやくしたい気もするし、迫られるとなごり惜しいような気もする。みなそれぞれさまざまな想いを抱いているだろう。だが現実となった今、いやおうなしに先に目を向けざるをえまい。いずれは社会に出て戦わなければならないのである。そのステップとなったはずの高校時代である。人それぞれの高校時代。これでよかったのだと思いたい、そう思って卒業してゆきたい、そう思って卒業してゆくのである。

卒業するにあたって
3年生女子

 サイン帳が目につく季節となった。とうとう―。校舎に通うのはあと1週間もないなんて聞いても全く信じられない。入学式の日のことは、まるで昨日のことのように憶えているのに。
 私が就職しようと決めたのは確か2年生の6月頃だった。思い悩んだりもせずに、あっさりと決心がついたのは、後で思い起こしてみると自分でも意外だ。一度決心してみると気持ちが楽になった。でも、これで“学生”にもサヨナラだと思うと淋しい気持になることもある。本当に3年間なんてアッという間だ。私の高校時代においてその3年間の生活の半分以上をクラブが占めている。私は中学生の頃、とにかく体が弱く、先生の車で送られたこともしばしばで、先生もホトホトまいっていたらしい。その私が運動クラブに入るなどと言ったものだから、母は驚きもしたし、心配もしたようだ。確かに最初の頃は家に帰るとダウンなんてこともあった。だけれどスポーツをやったことのある人にしかわからないあの充実した感じ(うまく表現できないけれど)が味わいたくて続けていたんだと思う。クラブの引退の時、3年生がオイオイ泣き出してしまい、後輩達はびっくりしていたような顔してたけれど、そんな気持ちももう少したてばわかってもらえそうな気がする。
 “学校”と名のつく所へ通うのはあとちょっとでおしまい。もう青春も終わりだなんてオーバーなことを考えては、あと何日、あと何日と数えているこの頃である。

話のひろば
ヨーロッパで見て聞いて

PTA会長



◎スウェーデンの首都ストックホルムの繁華街といわれるクングスガータン(王様通り)では、勇ましいスタイルの若い男女が傍若無人ともいうべき振る舞いをみかけることがある。しかし、これは日本でもみかける一部の若者の姿であり、決して代表的なものではなく、平均的な家庭ないしは若者は案外地味で健康的のようである。したがって私どもが日本で聞かされるスウェーデンの「性」の実態については、あまりにも誇張されすぎているようである。
◎西ドイツのミュンヘン、フランクフルトの両市で中産的なサラリーマンの家庭を訪問させていただいた。テレビは白黒、電気洗濯機は置いていないのである。なるほど日中のテレビはニュース、教養番組程度のものでカラーの必要性はあまりないらしい。勿論、朝からの漫画の放映はみられない。洗濯機の必要性もこの手で洗えるうちはゴシゴシやるという。では預金の使い道はというと、家族で国外旅行と答えた。(共働きの家庭での話である)
◎アメリカ合衆国のオレゴン州にポートランド市がある。ここに北陵高校の姉妹校リンカーン高校がある。朝9時校門に着く。始業時間は8時50分、静寂そのもので遅刻の生徒の姿も見えない。校内に入り廊下を歩いて、両側の教室は授業中、無人の静けさの表現がぴったり。休み時間廊下で生徒と行き交う、人なつこい。手をさしのべる者、拍手をしてくれる者、下うつむいて通り過ぎる生徒は見られなかった。校長室、生徒会事務室にも案内された。いずれの室にも国旗(星条旗)が飾られてあった。旗の好きなお国柄といえばそれまでだが、国家のプライドをもっている国民だと思った。
―昨年秋、ヨーロッパと米国を含め14都市を視察できた機会に、日本で聞いていたことと随分違う印象を受けたものの中から、いくつかをメモしてみました。

家庭教育シリーズ・最終回
“子を知るは親に如かず”か

校長

 2月3日付、読売夕刊に「志望校で父親と意見対立、日比谷高生が自殺」と報道された。「昨年の3月ごろ、父親が“どこそこの大学を受けろ。落ちたら出ていけ”と言いました。自殺を心に決め、表ではご命令の大学に行くように見せかけ、その場をしのいだのであります」と遺書に書かれており、母親の話によれば、親は一橋、慶応、早稲田を受験させたいと思ったが、本人は美術学校に行きたいと言っていたという。詳しい事情も、生育歴も、両親の様子、家庭環境など知り得ないので、軽々しくは言えないが、「子を見るは親に如かず」といわれるように、18年間の我が子の成長過程から子どもの性格傾向、志向を把握できただろうし、一度の話合いが両親の希望を変えることが不可能と思い込ませたのか、その後1年間志望校についての話合いがなかったとしたら、余りにもあわれなことである。教頭先生は「陽気な、明るい感じの生徒だった」と言っているが、この間に学校、担任はどんなかかわり方をしたのだろうか。
 最近の子ども達は、何を考えているか分からない、いくら言っても親の言うことをきかないと言うものと、親の言うことを素直にきく(すぎる)ものとがあるようで、親はさじを投げるか、納得しているものと信じている。何も言わないから安心してよいだろうか。
 過日、市内の某高校で、某大学で学生の健康管理を担当している先生を呼んで、PTAの研修会を開き、大学進学後の学生の精神衛生、悩みなどについて講演をしてもらったが、その中で次の事例が紹介されたと言う。
 地方で小・中・高と秀才で過ごし、現役で見事難関を突破して入学した学生が、数か月たって「どうも主体的に動けない」と訴えてきた。そこでどういうことか作文を書かせたら、次のようなことが分かった。「母はりっぱな人で、浪費をせず、自分のことはかまわずに、父と子のために尽くすという人で、やさしく育てられた。口うるさくは言わないが、幼児から勉強の必要性をとき勉強することを教えられた。自分もその通りに暇があればよく勉強した。遊びに出る時は、何かあったら困るので、余り遠くへいかないように、不良とつき合わないようにと言われ、木登りなどは危ないのでしないようにと言われ、素直にいう通りにしてきたので、小・中・高を秀才と言われて育った。何にも矛盾も不満もなかったが、札幌の大学に入ってからは、どうも自分で思うように友人づきあいも出来ないし、身体が動けないように感ずる。考えてみると、自分も辛いし、母も悲しむかもしれないが、母と訣別し、母との関係を断ち切らないと独立した人間になれないのではないかと思うが、どうしたらよいか」というのである。
 悲しい親の宿命をしみじみ感じさせられたことである。
 この連載は終わった。家庭・親と子を中心に、時の話題も含めたが言い残しは多い。他日を期したい。ご家庭の繁栄を祈ってやまない。


[北陵だより第14号 4ページ]

スクールライフ


スキー授業あらかると
体育科教諭

 北国の長い冬。銀色に輝く世界に展開されるスキー授業。若い力が滑る、転ぶ、とぶ。色とりどりのヤッケがゲレンデ狭しと踊る。「あいつは俺よりいい靴はいてるな」「あらっ、私と同じスキーだわ」「あれえ、あの人あんなにカッコよかったかしら、見直しちゃうわ!」「なんだあ、いつも口先ばかりでちっともパラレルになっていないじゃないか」。それぞれの心の内を知ってか知らずか粉雪が舞い、美しいシュプールが描き出される。スピードを出すな、ゼッケンつけろ、髪の毛出すなの注意もうわの空。「もっと滑りたいなあ」「えー、リフトに乗らず階段登行で頂上までえ!?」「いいじゃないねェ、私髪の毛出した方が似合うのよ」。青空の下開放された心は大きく弾む。

弁論全国大会3位入賞
有島青少年文芸賞受賞

・古い佇まいを残す倉敷市での全国大会に出場できたことは、僕にとってうれしい誤算でした。僕などは顔面蒼白で、ガチガチの発表でしたが、未知の同朋が語る弁論は昔の絶叫調ではない、落ち着いた中にも静かな闘志と大きな情熱を秘めた弁論でした。弁論などというと何か肩の張った、妙な抑揚の声での発表と考えていた僕でしたが、地区から全国へ、とくに全国大会では、はっきりと内容を理解してもらい、多くの聴衆に訴えようとする、普段の会話と変わらぬほどのスピーチでした。
 良い弁論は背中がザワザワっとなるといいますが、全国ではそんな主張がたびたびあり驚きました。北海道では問題とされない部落民問題とか、死の瞬間まで自分の身のまわりを心配してくれたお母さんの事を述べ、親孝行の大切さを感じさせてくれるもの、ささやかな体験から幼児たちの世話をしていきたいと何の力みもなく、明るく語ってくれる弁論、その他、農業の事、戦争と平和に関してなど聞いているだけでいかに今までの自分が井の中の蛙であったがわかりました。いずれも真正面から取り組んでいて、とても順位を決める事などは不可能だと思いました。
 「弁論とは言語によって人を説得する技術であるが、しかしして技術はその至育において芸術と称せられる」といいます。キザに言えば弁論との出逢いは、僕にとってかけがえのない貴重な体験でした。
 最後に終始未熟な僕を御指導下さった先生に心から感謝いたします。

・『夏からの知らせ』が新聞紙上に掲載され、大半の方は、あの人が小説を書くなんて、と驚異の念をもった事だと思う。
 この小説の反響として、ある旧友からは「期待はずれ」とか、サークル活動をしている北大生に批評を請うと「単なる女の子の気取った日記で、盛り上がりに欠ける」という私にとってはかなり辛辣だが、的を得ているものがあり、胸に応えた。
 夏休みの終わり頃に感じた、何か吹っ切れない胸の重さは、受験という厚雲だったと思う。書けば少しは胸が軽くなるかもしれないと思い、夏の利尻島に私の心を託した。
 しかし、私にって書くことは逃避だ。私の何の努力もせずに、逃げ出そうとしている。この葛藤のうちに、小説は完筆した。
 まさか受賞するとは思っていなかったから、ただ応募することだけで、何にもしなかった高校生活の中に存在感を求め、思い出となることで満足しようとしていた。それが、優秀賞を受け、しかも掲載され、夢のようだった。
 先日、ある新しい文芸サークルから入会の誘いがあり、私は入ることにした。私にとって『夏からの知らせ』は、ただ観念的な事象をストーリーに仕立てただけの未熟なものであるが、第一歩としては幸運なスタートを切ったと思う。今後は、この趣味を力いっぱい伸ばしていきたいと思っている。

私は誰でしょう
第2回予餞会



 2月10日、最後の試験を終えた3年生を送る予餞会がおこなわれた。3年の担任を中心に上演されたオペレッタ「私は誰でしょう」は、会場に笑いの渦をまきおこして、これから受験に向かう3年生の心を暖かくほぐしたようであった。

編集後記
▼今回は学校教育のむずかしさの中での先生方の並々ならぬご苦労と、切実な願いをこめた親の心情の痛々しさを中心にまとめてみました。大望を抱き巣立ち行く360余名の生徒の前途に幸多からん事と本校の発展を願いつつ……係の任務を終わらせていただきます。
▼広報活動には日頃縁遠い私達ですが、諸先生を始め全委員の協力により50年度の発行は本号をもって終わらせていただく事となりました。
▼編集に当たってリーダーが紹介した、素人なりに技術にとらわれず熱意をもって、実りある活動をモットーに研さんを重ねながら楽しく過ごして参りました。
▼編集活動が従来の全面的な学校側依存から脱皮を契機に、号を重ねる毎に学校教育と社会教育とが効果的に融合されるきずなになれば幸いと存じます。またそのように成長願いたいものです。寄稿にご協力下さいました皆さま、誠にありがとうございました。